第37話 誰がための奇跡 4
山奥に分け入ると、足元の土が徐々に湿り気を帯び、道は次第に険しさを増していった。
木々は背が高く、枝葉が重なり合って空を覆い尽くし、薄暗い森の中に冷たい風が吹き抜ける。
「やはり山奥か」と僕は思わず口をついた。
神社の社殿から更に奥へ、深く踏み込む。
僕とサダコは、宿で念のために用意してきた山登りの装備を身に着けていて正解だった。
斜面は急勾配で、しっかりとしたブーツがなければ足を取られてしまいそうなほどだった。
「この奥になにがあるんでしょうか?」
サダコが振り返って問いかけた。
「前回、山奥まで行こうとしたカメラマンの奥井さんが追い返されたらしい」と僕は応じる。
「どうやら神社関係者が通せんぼをしていたらしいよ。村祭りでさえ、山の奥のこの地図に示された場所にまでは立ち入っていないそうだ。奥井さんに裏を取ってきた――ちょっと待ってくれ」
僕は村の金物屋で買った鉈を取り出し、低い木の枝や絡みつく蔦を払いのけた。
夏の間に伸びた鬱蒼とした雑草が、僕らの行く手を阻んでいた。
獣道は細く、道らしい道と呼べるものではないが、それでも進めそうな気配はある。
地図には『ここを突っ切る』と手書きで書き込まれており、どうやら近道のようである。
「行けそうだ」と言って、サダコに合図する。
獣道は鬱蒼とした樹木に覆われ、僕らが踏み出すたびに乾いた小枝がパキリと音を立てた。
深く入り組んだ林の中は薄暗く、昼間だというのに木々の影が不気味に揺らいでいる。
僕は鉈を手にし、前方の邪魔になる枝や蔓を一つひとつ払いながら進んだ。
湿った空気が肌にまとわりつき、やがて汗が額から垂れ落ちる。
禰宜の老人から受け取った地図を頼りに足を進めていくが、心中の不安は徐々に膨らんでいた。
もし、老人がこの世に存在しなかったとしたら――彼から貰った地図も、鍵もいつ消えてしまうかもしれない。
そうなれば僕らは、山の中で手がかりを失い、完全に行き詰まることになるだろう。
焦燥感が胸を締め付け、自然と鉈を振るう手に力がこもった。
山道は次第に険しさを増し、斜面に沿っていくつもの古びた石段が現れた。
長年の風雨に晒されて削れたそれらは苔むして滑りやすく、足元を確かめながら慎重に進まなければならない。
かつて人がここを通った証は、今はほとんど残されていない。
まるでこの道そのものが時間の中に埋もれ、忘れ去られた神の領域へと誘っているかのようだった。
「大丈夫ですか?」
サダコが声をかけてきた。その声には緊張が滲んでいる。
「もちろんさ。さあ、もう少し進もう」
答える僕の声は震えていた。
禁足地へと近づくにつれ、畏れと恐怖が全身を包み込み、足下から冷たい何かが這い上がってくるように感じた。
地図には村人たちの目に触れないルートが示されていた。
その道は険しく、通常の参拝者が通ることは決してない。
獣道を辿るうちに、巨石に挟まれるように建つ苔生した鳥居が目の前に現れた。
高さは想像をはるかに超え、圧倒的な威圧感を放っている。
鳥居を通り抜けた先に広がるのは、人の立ち入りを拒むかのように静まり返った空間だ。
「あそこが、村祭りの時に男たちが登ってきていた場所だろう」僕は呟いた。
サダコもその異様さを感じ取っているのか、緊張した表情で頷いた。
鳥居の柱には、長年に渡って風化した梵字が刻まれているが、変形したその文字は何を意味しているのか解読できない。
大学のオカルト研究会でも手を尽くしたが、類例を見つけることはできなかった。
それはこの土地独自の、あるいは遥か昔から続いてきた信仰の痕跡なのだろうか。
「サダコ。あの岩の先、鳥居の向こうが禁足地だ。準備はいいか?」
「うん」
彼女の返事は強がりのように聞こえたが、僕自身も心の中では震えていた。
禁足地に足を踏み入れる畏れと恐怖で息がし辛い。
僕は恐怖を振り払うように前へ進む決心を固めた。
「よし。行こう」
人が一人やっと通れるほどの岩の隙間を慎重に歩き進めると、禁足地の冷たい空気が肌に触れ、身震いするような感覚に襲われた。
それは、僕らが人間の領域を超え、神の領域へと足を踏み入れた証だった。
☆☆☆
「……あえ?」
サダコが妙な声を出した。
「どうした?」
僕は立ち止まり、サダコの様子を窺う。
「あの……例のブログの掲示板に書き込みがあったみたいです」
サダコの指がスマホの画面を揺らす。
「こんな山奥で繋がるんだな」
僕は訝しげに眉をひそめた。
「どれ、見せてくれ」
サダコはスマホを差し出し、僕は画面に目を落とす。
そこには簡潔なメッセージが表示されていた。
『君たちも はやく 来なさい』
その瞬間、背筋を冷たい何かが這い上がってくる。
言葉の意味は単純だが、そこには何か得体の知れないものが含まれているように思えた。
誰かがこの先で僕らを待っているというのか?
それとも、全く別の何か――この山の中に潜む未知の存在が、僕らを招き入れようとしているのか?
だが、ここには誰もいない。何もない。
胸の奥で不安がじわじわと広がり、冷たい汗が背中を伝うのを感じた。
「サダコ、これを持っていてくれ」
僕はサバイバルナイフを取り出し、サダコへ手渡した。
サダコは戸惑いの表情を浮かべながらナイフを受け取る。
「本当に、必要なんですか?」
「念のためだ」僕の声は思ったよりも硬く響いた。
「刺すなよ、致命傷になるから。不審者が相手なら動脈以外を狙って、戦意を奪うだけでいい。そうしたら後は僕が何とかする」
僕らは再び歩みを進め、苔生した鳥居をくぐった。
冷たい風が吹き抜け、背後で何かがささやくような錯覚に襲われた。
鳥居の先には古びた社務所が見えてきたが、その姿は不気味なまでに静かで、長い間誰も近づかなかった禁忌の場所のようだった。
古びた社務所は、かつての賑わいの面影を完全に失い、まるで時の流れから切り離されたかのように佇んでいた。
板張りの外壁は朽ち果て、ところどころに染み付いた黒ずみが湿った木の臭いと混じり合って、鼻をつく。
窓のガラスはひび割れ、薄暗い内部がぼんやりと見えるが、そこには人の気配が全く感じられなかった。
社務所の周囲に漂う空気はひどく重く、まるで見えない手で胸を押し付けられるような息苦しさを感じた。
「ここに誰かが待っているというのか?」
自分の声が妙にかすれて聞こえた。
鳥居を潜った時から、僕らの周囲には不気味な静寂が支配している。
とてもじゃないが、一人ではここまで来られなかっただろう。
恐怖でどうにかなりそうだった。
古いガラス戸の前に立ち、軽くノックしてみたが、返事はない。
ガラス越しに中を覗くと、埃まみれの床と倒れた椅子が薄暗闇に沈んでいる。
外から差し込む微かな光が埃の粒を浮かび上がらせ、まるで無数の小さな目が僕らを見つめているかのようだった。
僕はポケットから老人から受け取った古びた鍵を取り出し、錆び付いた鍵穴に差し込んでみた。
金属が擦れる不快な音と共に、鍵が重々しい音を立てて回り、戸が開いた。
その瞬間、長い年月閉ざされていた社務所の空気が一気に外へと吹き出し、カビ臭い匂いが鼻を突いた。
「行くぞ」
大きく深呼吸し、お互いの目を見て頷いた僕たちは、薄暗い室内に足を踏み入れた。
ドアを開け放つと、音もなく闇が広がり、どこか遠くで何かが軋む音がした。
まるで僕らの訪れを歓迎するかのように、社務所の奥から冷たい風が吹き抜けていく。
まるで見えない存在がすぐ背後に迫っているかのような錯覚を引き起こす。
僕らはそれでも、前へ進もうと社務所へと入って行った。
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