第36話 誰がための奇跡 3
タクシーはゆっくりと秋空の下、田舎道を進んで行った。
両側に広がる田んぼは、すでに稲刈りが終わり、黄金色の稲穂が切り株だけを残していた。
ところどころに背の低い雑草が風に揺れ、小川のせせらぎがかすかに聞こえてくる。
空は透き通るような青で、ぽっかりと浮かぶ白い雲が太陽の光を浴びて輝いていた。
道沿いには古びた民家がぽつぽつと立ち並び、軒先に干された柿が赤く色づいている。
ところどころに見える木々は紅葉が始まりかけ、鮮やかな赤や黄が風に舞うたびに揺れていた。
田舎特有の土と草の匂いが車窓から漂い込み、どこか懐かしい気持ちにさせる。
時折、農作業中の人々が手を休めてタクシーを見送る姿が見えた。
小さな無人駅から外れたこの道は、普段はほとんど人通りがなく、聞こえるのは遠くの鳥のさえずりと、タクシーのタイヤが舗装された道を踏みしめる音だけだった。
その静けさのなか、サダコはずっと僕の手を握り締めたままだった。
秋風が頬を撫でるように冷たく、季節の移り変わりを感じさせる。
タクシーの中で、窓の外に広がる風景が静かに流れていく。
サダコは僕の手を握り続け、じっと何かを考えているようだった。
その指先の冷たさが、これまでの葛藤や決意の重さを物語っているようにも思えた。
僕は彼女の横顔に視線を向けたが、彼女は遠くの秋空を見つめたままだ。
「――お父さん……武山先生から全て訊いたのか?」
思い切って口を開いたが、声は少し震えていた。
「うん」
サダコの返事は静かで、しかし揺るぎないものだった。
「それは、僕や武山先生のこと。タイムループの話を――全部かい?」
「うん」
僕はそれ以上言葉を続けることができず「そうか」と小さく呟いた。
その言葉は、タクシーのエンジン音にかき消されてしまいそうなほどに小さかったが、それでもサダコの耳には届いたようだった。
車はカーブを曲がり、秋の木々が並ぶ小道へと入っていく。
サダコの指が僕の手をさらに強く握った。
その温もりが、これからの旅路に対する彼女の覚悟を伝えているように感じた。
☆☆☆
旅館に到着すると、女将が笑顔で出迎えてくれた。
僕らがいつも泊まる部屋に案内され、荷物を置いたその時、女将が話しかけてきた。
「あら、長谷川先生、映画観ましたよ! 『鏡のなかのひと』ね。あんなに迫力のあるお芝居、びっくりしましたよ」
彼女の言葉に僕は苦笑いで応じた。
自分でも演技と呼べるのか怪しいと思っていたのだが、女将の目は真剣だった。
まるで劇中の僕を、現実の僕と重ねて見ているかのように。
「お褒めいただいて恐縮です」と僕は返し、そそくさとサダコの方を見やった。
サダコは、どこか落ち着かない様子で外を眺めていた。
「さて、行こうか。
僕らは立ち上がり、外の秋風に吹かれながら旅館を後にする。
道中、僕はふと思った。
今夜、本当にこの宿に戻って来られるのだろうかと。
鏡山村には不穏な気配が漂っていた。
これまで何度も訪れている場所であるにもかかわらず、今回は何かが違うように感じたのだ。
サダコが僕の腕を掴んだ。
彼女の瞳には決意と不安が入り混じっているように見えた。
☆☆☆
水鏡神社に足を踏み入れると、長い歴史の重みを感じさせる静寂が辺りを包んでいた。
苔むした石灯籠が参道の両側に並び、木々の間から射す光が柔らかく社殿を照らしている。
社殿の瓦屋根には落ち葉が積もり、風が吹くたびにさらさらと葉が舞い散る。
紅葉は見事に色づいており、赤や橙、黄色が織り成す風景はまるで絵画のように美しかった。
参道を進むと、神主の男性が竹箒を手にして紅葉を掃いているのが見えた。
手慣れた動作で箒を動かし、境内に散らばった葉を一か所に集めている。
その姿は、静かな境内に馴染んでいた。
「こんにちは。以前、こちらでお世話になった禰宜さんにご挨拶したいのですが」
「禰宜の――誰ですか?」
秋の風に乗って境内の静寂が一瞬だけ乱れる。
神主はほうきを止め、顔を上げて僕の方を見た。
「ええ、以前こちらでお世話になりまして、久しぶりにご挨拶をと思いまして」
僕は丁寧に答えた。
あの時の禰宜の笑顔や、渡された鍵の重みが鮮明に蘇る。
神主はしばらく僕を見つめていたが、次の瞬間、少し困惑した様子で眉をひそめた。
「うちの神社に禰宜はおりませんが」と神主は答えた。
一瞬、耳を疑った。
禰宜がいない?
そんなはずがない。
昨年ここを訪れた際、確かに禰宜の老人がいて、古びた鍵と地図を手渡してくれたのだ。
あれは夢や幻などではなかったはずだ。
「……いや、確かに昨年、こちらで禰宜の方とお話ししました。古い鍵と地図をいただいて……」
僕の声は自然と震えていた。
「昨年?」
神主は首をかしげ、怪訝そうに僕を見た。
「この神社に禰宜がいたことはありません。少なくとも、私がここで奉仕をしている二十年の間には」
その言葉に背筋が凍るような感覚が走った。
二十年の間、一度も禰宜がいなかったというのか。
それなら、僕が昨年出会ったあの老人は一体誰だったのか。
頭の中で疑問が膨らんでいくばかりだった。
サダコが袖を引っ張る感触で、我に返る。
彼女の顔にも不安が浮かんでいたが、決意を帯びた瞳で僕を見つめている。
「本当に……昨年ここで会ったんです」
言葉が喉に詰まるような感覚だった。
「鍵と地図を渡されて……それを確かに僕は――」
神主は静かに僕の言葉を遮る。
「申し訳ありませんが、そのような話は聞いたことがありません。おそらく何かの間違いでしょう」
神主が軽く頭を下げると「すみませんが、そろそろお参りの方へ戻らないといけませんので」と足早に境内の奥へ向かっていった。
紅葉の落ち葉が神主の足元で小さな音を立てる中、僕はその場に立ち尽くし、全身に不気味な違和感が染み渡っていくのを感じていた。
☆☆☆
目の前が真っ白になっていく。
言葉が途切れ、世界の輪郭が曖昧になっていくような感覚に襲われた。
まるで現実そのものが薄い霧に包まれたように。
その時、サダコが僕の袖を強く引っ張った。
はっとして、彼女の顔を見つめた。
澄んだ瞳の中には、戸惑いと不安が入り混じっていたが、それでも僕を真っ直ぐに見つめていた。
サダコのその視線に、僕は現実へと引き戻される。
そうだ――いつも僕はこういう場面で立ち尽くしてしまう。
大切な瞬間に限って、思考が停止し、何も考えられなくなってしまう。
そしてただ茫然と立ち尽くすことしかできなかった。
だが、今は違う。動くんだ。前へ進むんだ。この停滞を打ち破るんだ。
僕がいったい何者だというんだ?
大学教授?
コメンテーター?
そんな肩書きが何だというんだ。
どれもただの肩書きでしかない。
実際のところ、僕などただの道化に過ぎない。
偉そうに語る資格なんてないし、まともなアイデアが出た試しもない。
けれど、今はそんなことどうでもいい。
道化だろうが何だろうが、進まなければならない時がある。
「行こう」と僕はサダコに言った。
声が震えていたかもしれない。
それでも、サダコは小さく頷いてくれた。
彼女の小さな手が僕の袖をしっかりと握り締めている。
そのぬくもりが確かに感じられ、僕は前へ進むための力を得た。
僕らは手に手を取り合い、未来への回廊を歩いて行った。
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