最終章
第34話 誰がための奇跡 1
杉山恵理の突然の死で、日本中が大騒ぎになった。
自己との闘争の果てに自死した上原雄介とは違い、杉山恵理の死はまったくもって理不尽であり、多くのファンが彼女の早すぎる別れを悲しみ、毎日のニュースで「悲劇の夫婦」として取り上げられ続けた。
当然、僕の元にも数多くの取材が舞い込んだ。
だが、ワイドショーに出演していた立場でありながら、僕は頑なにすべての取材を断り続けた。
ほとんどの真相を知る僕にとって、軽々しく口を開くなど到底できなかったからだ。
☆☆☆
数週間後のある日の午前中、久しぶりにサダコに会った。
ようやく封切られた『鏡のなかのひと』を一緒に観ようと彼女から誘われたのだ。
駅前で待ち合わせして、僕は少し驚いた。
青い髪から落ち着いた髪色に戻したサダコが僕を待っていてくれた。
どこか控えめな雰囲気を纏う、その姿は、彼女の出自そのものを象徴するかのように、まさに育ちの良い良家の子女に見えた。
だが、その外見とは裏腹に、サダコの内面に秘められた葛藤を僕は知っていた。
久しぶりにサダコと会い、食事をしながら映画の裏話をたくさんした。
お互いに触れたいけれど触れられない話題を避けるように、くだらない会話で時間を埋めていた。
だが、僕は次第に胸の奥底からこみ上げてくる言葉を抑えられなくなり、とうとう話さざるを得ない瞬間が訪れた。
☆☆☆
激しく窓を叩く雨音の中、二人で漫画喫茶に入る。
狭い二人席に腰を落ち着け、僕はサダコの前で上原のブログにアクセスした。
ディスプレイの光がサダコの顔に淡く映り込み、その瞳の奥に戸惑いと不安が滲んでいるのを感じた。
「読んでみてほしい」と促し、僕はコーヒーを取りに立った。
背後でページをスクロールする音が微かに聞こえる。
サダコは何を感じているのだろうか。
画面に映し出された文字は、まるで彼女がこの世の存在ではないと断言しているようにさえ見えるはずだ。
僕がそうだったように。
戻ると、サダコは少しだけ笑みを浮かべながら僕を見上げた。
だがその笑顔はどこか痛々しかった。
「サダコ、君がこのままでいいというなら、僕に言うことはないよ。強制なんかできるわけがない」
僕はそう言いながら座り直した。
「でも、もし解決したいと願うなら……」
「あああ。そうだったんスねえ……なんか私、いつも人とは、ズレてるとは思っていたんですよお」
サダコは苦笑を浮かべた。
「この特性なんとかって――私の父親のことでしょ?」
僕は頷いた。
「うん。すこし前に、武山先生と会う機会があってね」
「そうッスか」
彼女の声はわずかに震えていた。
雨音が窓ガラスを叩き続ける。
サダコの瞳が一瞬だけ閉じられ、遠い昔を思い出しているようだった。
「私……イジメられてたんですよお」
小さな声でぽつりと告げた。
彼女の告白に、僕は胸の奥がぎゅっと締め付けられるようだった。
言葉にできない寂しさや孤独が、彼女の声からにじみ出ている。
「なんかあ。ずっと、ずっと、皆と同じにはできなくて……でも、仲良くなりたくてえ」
「なんだかなあ……そりゃそうですよねえ。怪物じゃないですか。コレ。私、怪物だったんッスよね?」
僕は言葉もなく、サダコを抱きしめた。
肩にかかる柔らかな髪に、彼女のかすかな震えが伝わる。
僕はその背中をそっと撫でた。
サダコは自嘲するように小さく笑った。頬に涙が伝う。
「そんなことない。サダコが怪物なんてことがあるもんか」
僕の声はかすれていた。
「誰も傷つけちゃいないよ。傷つけられてばかりの怪物なんて……そんなのは違う。絶対に違うんだ」
サダコは僕の腕のなかで小さくなり丸まって、声を押し殺して泣いていた。
彼女の涙が僕の胸元にしみ込んでいく。
ああ。きっとサダコはずっと泣いていたんじゃないだろうか――心の奥底で誰にも知られずに。
僕は彼女の背中を撫で続けた。
それしかできることがない自分が情けなかったが、サダコに寄り添えるのは、今は僕しかいないことも知っていた。
僕はしばらくの間、サダコを抱きしめたまま動けなかった。
彼女のすすり泣く声が、僕の胸元に染み入り、その痛みがまるで自分自身のもののように感じられた。
これ以上はもう何も言えない。
そう思いながらも、ふとある考えが頭をよぎった。
「サダコ――」
僕はそっと彼女の肩に手を添えて、ほんの少しだけ顔を離した。
「一緒に、鏡山村へ行かないか」
言葉が口を出ると同時に、心臓が跳ねるように鼓動した。
そこへ行くということは、過去に向き合うことを意味する。
それは僕自身も恐れていることだった。
だが、避けては通れない。
サダコの涙を拭い、彼女の孤独を癒すためにも、この場所で立ち止まっているわけにはいかなかった。
サダコは僕の言葉を聞いて、顔を伏せたまま静かに頷いた。
その動作は、まるですべてを悟ったかのような、決意を固めるような重みを持っていた。
彼女の濡れた頬が光を反射し、その姿が僕の胸の内に深く刻まれていく。
「ありがとう。無理はしなくてもいいんだ。ただ、僕はね……」
僕の声はかすかに震えていた。
だが、サダコは何も言わなかった。
代わりに、再び僕の胸に顔を埋め、嗚咽を漏らしながら泣き続けた。
その細い肩はかすかに震えていて、冷たい雨の音が外で響き続けている。
僕はそのまま彼女を強く抱きしめた。
自分の胸に抱えたその小さな存在が、どれほど重く、そして壊れやすいものかを改めて感じた。
サダコが泣き続けるその間、僕は自分自身の涙をぐっとこらえ、堪えるのに大変な苦労をした。
彼女の痛みを和らげるためには、今は僕がしっかりしなければならない。
それでも、胸の奥底では溢れそうな感情がぐるぐると渦巻いていた。
涙が出そうになるたびに、ぐっと奥歯を噛み締め、こらえる。
自分にできることは、ただ彼女を支え続けることだけだと自分に言い聞かせていた。
サダコはいつまでもすすり泣いていた。
彼女の体温が伝わってくるたびに、僕の心に深い孤独と悲しみが広がっていくようだった。
それでも、僕たちはここから始めるしかなかった。
鏡山村へ向かうという選択が、どんな結果をもたらすかはわからない。
それでも、向き合うべきものから逃げるのではなく、踏み出すことが今の僕たちにとって必要だと信じた。
やがて、サダコの嗚咽が徐々に小さくなり、静寂が僕たちを包んだ。
彼女は僕の腕の中で小さくなりながら、深く息を吸い込んでいた。
その息遣いを感じながら、僕は彼女の背中を優しく撫で続けていた。
「大丈夫だよ、サダコ。これからは、一緒に進もう」
僕はその言葉を自分にも言い聞かせるように、彼女の耳元でそっとささやいた。
サダコは何も言わなかったが、頷いた気がした。
その小さな動きが、僕にとっては大きな希望だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます