第31話  続・特性追跡者 4

「やめてッ!!」「いや!」「誰か――たすけ……ッ!!」


 恵理は、悲鳴のような叫び声を繰り返していた。

 "鏡に映った恩師"役が、”なつ”役の恵理の髪を掴んで引き摺り倒す真似をする。

 包丁を振り回し、スリリングなシーンが展開される。


 ――というテスト映像を、僕は朝早くから無理やり観せられていた。


 服部監督が画面を指しながら説明する。

「ここから、ここまで引き摺る感じでね」

 彼の声が耳に入るが、僕のやる気は完全に蒸発していた。

「……はあ」と、気の抜けた声が漏れる。


「大丈夫ですか?」と監督が気を使って尋ねるが、正直言って大丈夫ではない。

「大丈夫そうに見えますか?」と半ば皮肉を込めて返すと、なぜか助監督が横から焦点の合っていない目で「見えます!」と断言された。

 彼も相当疲れているのかもしれない。


「――難しいですよ」と僕は呟く。

「いや、恵理ちゃんがどうしても先生に演じてほしいって言ってるんです」と監督は言葉を続けた。


「当初はアクション事務所の若手を使おうとしたんですけどね」

「それでいいじゃないですか。アクションシーンなんだからプロに任せた方が」と僕は首を傾げる。


「ところが、恵理ちゃんが待ったをかけてきてね。考えてみてください。この役は別に普段から体を鍛えているわけでもないオジサンです。そのオジサンが殺し屋でもあるまいし、手慣れた感じで襲いかかってきたら、おかしいじゃないですか」


「ええ……?」僕は完全に困惑した。

 この理屈には、なんとも言いようのない違和感があった。

「いやいや。それこそ演技指導で、なんとでもなるでしょう」

「――ならなかったんですよね。それが」

「は?」

「上手いんですよ。役者って微妙に。上手に殺そうとしちゃうんです」

「だったら、転ばせたりしなさいよ。ドジ踏ませるんですよ」と僕は口を挟んだ。


 監督が首を振って、困ったような顔をして少し微笑む。

「いいですか。先生。人間はね。努力すれば上手くなれますが、努力して下手にはなれないんですよ」

 わかったようで、実はまったくわからない理屈を僕は言われ続けていた。


 完全に欺されたな。

 どこが「優しくする」だ。

 現場指導だけで、人殺しを演じられたら苦労はしない。

 第一、人殺しの役なんて、監修の仕事でもなんでもないではないか。

 これじゃあ、ただの無茶振りだ。


「すみませんが、僕には無理ですね」と言って席を立とうとすると、スタッフの声が聞こえた。


「杉山恵理さん入りまあす!」


「あ! 先生!」と恵理が駆け寄ってきた。

 相変わらず、存在感がすごい。

 彼女の登場で場が一気に引き締まる。


「ごめんなさいね。私のわがままで」

 まったくだ、と僕は思ったが、彼女は上目遣いで僕を見上げてくる。

 ああ。これは、男を落とす時の顔だなとピンときた。

 昔は可愛かったのだが、今となっては鍛え上げた目力しか感じない。


「いえいえ、もう帰るところです」と、僕は余裕を装った。

 元々の人生では、彼女は僕の妻であったのだ。

 そんな経験を経て、今さら彼女の色仕掛けに引っかかるわけもない。


「素晴らしいわ!」

 恵理は手を叩いて笑顔を浮かべた。


「監督!  やっぱり素晴らしいわ! 先生が帰ろうとするなんて!」


「え?  ああ、うん。そうだね!  素晴らしい!」と監督も慌てて同調する。

「先生。この映画には先生が必要なの。弱い私を助けると思って出演してくださらないかしら?」

 恵理は、今度は潤んだ瞳で、僕を見上げてきた。


 いけしゃあしゃあと何を言い出すんだ。この女は。

 鋼鉄のようなメンタルしてるくせに、なにが”弱い私”だ。

 こうやって周囲を巻き込んで、自分の意思を通そうとする女は、この世で最も怖い人種のひとつだと思う。


「ねえ。先生。カメラテストだけでもダメかしら?」

 今度は小首を傾げている。

 君は自分を何歳だと思っているのか。


 この場にいるスタッフたちの目が、僕に注がれている。

 ああ。これはマズいな。

 出演しなければ、ここのスタッフや関係者から、確実に嫌われてしまうだろう。



 恵理の瞳がきらりと光る。

 その目は言っていた。

「さあ、釣れたぞ」と。


 僕は心の中でため息をつき、改めて確信した。

 杉山恵理という女優は、まさに怪物だ、と。


 ☆☆☆


 とうとう出演を了承してしまった僕は、スタッフが準備する間、休憩室でコーヒーを飲んでいた。

 まあ、撮影所まで来てしまった時点で、かなり不利だったのだ。

 それでも、簡単なチョイ役なら問題ないと思っていた。


「これは大変なことになったぞ」とコーヒーを啜って瞼を閉じる。

 スマホが鳴った。

 チラリと表示されている名前を見て、顔をしかめた。

 ジャーナリスト、新田悠也。

 前回ループでの”僕”である。


 緊張が走った。

 正直言って出たくない。

 今の時期、新田の生活は、次第に荒れていった頃である。

 おかしな話だが、僕は彼が怖くなってきていた。

 彼が何をしでかすか、今となってはまったく読めない。


 受話器を耳に当てたとき、真っ先に頭をよぎったのは、「もしかして、恵理と一緒にいるのを嗅ぎつけられたか?」という早合点だった。

 冷静に考えれば、そんなはずはない。

 しかし、彼の存在がここまで僕の心に影を落としているのだと、自分でも驚いた。


 かつての僕――新田の考えは、よくわかる。

 元が僕である以上、彼がどこに向かい、何を追い求めているのかはわかるつもりだ。

 彼は今、必死で何かを掴もうとしている。

 上原雄介として生きた僕の足跡を辿り、ループの謎、つまり「真実」に近づこうとしているのだ。


 だが、上原が自殺してしまったことから、今の彼は僕がかつて経験したこともないほど混乱し、荒れていることだろう。

 僕が経験した新田の世界では、少なくとも上原は生きていたのだから。


 しかし、その「真実」という言葉が、今の僕にはまるで意味をなさない。

 今の僕にとって、真実とはすでに歪みきったものに過ぎなくなっている。

 それを新田に伝えたとして、彼が理解するだろうか。

 いや、聞き入れるわけがない。

 彼はあまりにも固執し過ぎている――かつての僕がそうであったように。


「真実」とは何なのか。

 今となっては、その答えすら曖昧になりつつある。

 ただ、新田が、その答えにたどり着いたところで、それが彼を救うのかどうかは、もはや僕にはわからなかった。


 ☆☆☆


「わかった……わかったんだ……お前――お前は俺じゃないのか?」


 新田の低い声が耳に響いた瞬間、全身に冷たい何かが走った。

 挨拶もなしに、これだけ言って、ブツリと電話は切れた。

 その音が、やけに重く感じられた。


 僕はしばらく受話器を握ったまま、何もできずにいた。

 頭が真っ白になる。

 なぜだ。なぜそんなことがわかったんだ。


 新田は――かつての僕だ。

 しかし、ループ前の、新田にわかるはずがない。

 ループのことも、時間の歪みも、ましてや僕と彼自身の違いなんて。


 どうして、こんなにも早く気づいたんだ?

 新田はまだ、あの頃の僕と同じように真実を追い求め、手探りで彷徨っているはずだった。

 ループ前の新田に、そんなことがわかるはずもないのに……。

 全てが、音もなく崩れていくような感覚がする。

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