第30話  続・特性追跡者 3

 朝の通勤ラッシュを避けるため、早めに家を出た僕は、いつもの電車に乗り込む。

 車両はまだ空いていて、座れたことにほっとしながらも、スマートフォンを手に取った。

 通知を確認すると、サダコからの電話が入っていた。


「もしもし!」

 彼女の声が明るく響く。

「なんか面白いコトないッスか?」


「ないね」と冷たく返す。

 どうして彼女はこんなに明るいのか理解できない。

 サダコの無邪気さにはついていけない気がする。

 少しの沈黙の後、彼女は「ははッ!」と笑い、ぶつりと電話が切れた。


「こいつは……」

 僕は思わずため息をつく。

 彼女の明るさが、僕には重すぎる。


 電車が目的の駅に着くと、僕は改札を抜けてお気に入りの喫茶店へ向かった。

 駅ナカのその喫茶店は、朝の時間帯には比較的空いていて、静かな雰囲気が心地よい。

 カウンターに座り、モーニングを頼む。

 トーストとサラダ、そしてコーヒーが出てくるのを待ちながら、日々の雑事を考える。


 モーニングを食べながら、講義の内容を考え、頭のなかで確認作業をする。

 しかし、昨夜の武山先生の言葉が頭を離れない。

 真面目で、いつも論理的に物事を考える武山先生は、サダコとは似ても似つかぬ存在だ。

 彼の言葉には重みがあり、深い知見があった。


 サダコはその真逆で、まるで陽の光を浴びた花のように無邪気で、周囲を明るくする。

 しかし、彼女のそのはっちゃけたキャラクターは、時に僕には耐えがたく感じることもある。


 僕は職業柄、様々な学生と接するが、サダコのような存在はなかなかいない。

 入学当初、田舎から出てきた学生たちは、大きな期待を胸に抱いている。

 しかし、やがてその期待が空回りしていることに気づき、ある日突然、大人しくなるというパターンがほとんどだ。

 若気の至りを目の前で見るわけだが、それもまた青春の一部なのだろう。


 サダコはその真逆の道を歩んでいるのかもしれない。

 彼女の若気の至りがいつまで続くのか、時折気にかかる。

 彼女は何かに気づき、変わる日が来るのだろうか。

 自分の道を見つけられるのかどうか、そしてその時、彼女はどんな風に変わるのだろう。

 サダコの未来が、他の学生たちのように静かに変わっていくのか、それとも彼女自身の力で新たな道を切り開いていくのか。


 ☆☆☆


 電話が鳴った。

 またサダコか。

 僕は少しうんざりして通話画面を見て「あ……」と思わず声が漏れた。


 映画『鏡のなかのひと』の監督、服部さんから直々に掛かってきている。

 監督が、直接、関係者に電話をかけてくること自体が珍しい。

 助監督を通さずに連絡をくれるとは、何か厄介事か?


 頭の中が一瞬真っ白になる。

 映画の件は正直、気がかりだったが、ループから戻ってきたばかりの今は、それどころではない。


 なにせ、ループの影響で、講義の日程を間違えたり、同じ話を繰り返してしまったり。しっちゃかめっちゃかだったのだ。

 正直言って、ほんのちょい役で出ている映画なんて構っている暇などなかった。


 それでも、監修、原案を担当している身としては、電話を無視するわけにはいかない。

 僕は、しぶしぶ電話を取った。


「――はい。おはようございます」


「おはようございます、すみませんね、朝早くから」と服部監督の声が響いた。

「いえ、今ちょうど大学に向かうところです。何かご用でしょうか?」


「ああ、そのね。この前、撮影で少し時間をお借りしたじゃないですか」

「はい。確か……あれで終わりだと聞いているんですが」

「実は、うちの杉山がもうちょっと先生に出て欲しいと言い出しましてね」


 杉山――杉山恵理。

 彼女の名前が出て、胸の奥が少しざわついた。

 恵理は、僕が上原雄介だった時の妻である。

 今や国民的女優だが、先日の鳴海亮介としての密会報道以来、世間には堅く口を閉ざしている。

 彼女と僕との関係は、今や言葉にするのも難しい。

 上原としての記憶と、現在の僕とのギャップが、時に苦しくなるが、誰に相談するというわけにもいかぬ。


「杉山さんが?」と僕は思わず訊き返した。

「でも、監督が直接こういう交渉をするのは、珍しいですよね?」


「ああ、そうなんですよね……実は、脚本の読み合わせの時、先生と恵理ちゃんがちょっとした演技をしたじゃないですか。それでね、彼女、どうしてもそのインスピレーションが抜けないとか言うんです。ここだけの話……」


「……あの、鏡に映った僕を見て驚くシーン、ですよね?」


「そうそう! そのシーンです。相手役の演技もなんだかピンときてないらしくて……まいっちゃってるんです」


 まいっちゃうのはこっちだ。

 なんなのだ。そのわけのわからぬ頼みは。

「ええと。つまり、僕はどうしたら……」

「もうちょっとだけ、出てくれませんか?」

「いやですよ! 撮影現場、思ってた以上にピリピリしてるんですもん! 怖いですよ!」

「いや! それは、熱が入ってと言いますか。みんな優しくしますから! 本当に!」


 僕は映画の撮影現場にもう一度戻る余裕などないが、服部さんは、必死に説得しようとしている様子だった。


 僕は、ため息をつきながら喫茶店から窓の外を見た。

 これ以上、混乱を抱えるのはごめんだ。

 しかし、彼女が求めているなら……。

 鳴海亮介としての一件以来、僕は何かから逃げている気がしてならない。

 恐らくは、彼女からも。

 そして、あのループした時間の断片からも。


 でも、僕は再び彼女に向き合うべきなのか?

 その問いが、胸に重くのしかかってきた。

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