第27話 鏡のなかのひと 5

 翌朝、目を覚ますと、見知らぬ天井が視界に広がっていた。

 柔らかな光がカーテン越しに差し込み、高級ホテル特有の豪華な内装が目に入る。

 ここは、どこだ?

 まだ夢の中にいるのかと思ったが、心地よい羽毛布団が体を包み、現実感が押し寄せてくる。


 耳を澄ませると、シャワーの音が聞こえてきた。

 ぬるい水の音と、壁を伝って流れる水滴の音が、静かな部屋に響いている。

 飛び起き、周囲を見渡すが、どうして自分がここにいるのか、全く記憶がない。

 誰かいるのか?

 その時、冷たい汗が背中を流れた。

 なぜか、裸で寝ている自分に気づく。

 思考が混乱する。

 こんな状況で、何もわからないほど馬鹿でも幼くもないつもりだが、記憶は曖昧だ。


 いや、しかし――をした覚えなどない。

 昨日はママとサダコと別れた後、所用を済ませ、さっさと帰宅したはずだ。

 ふとした瞬間に不安がよぎる。

 まさか、何かが起こったのか?

 頭がぐるぐると回る中、シャワーの水音が止まった。


 ☆☆☆


 目の前に杉山恵理が立っていた。

「ねえ、次、シャワー浴びるでしょ?」

 彼女の姿が現実であることを確認し、僕は愕然とする。

 どういうことなんだ?

 混乱した頭の中で、彼女の笑顔がただただ眩しかった。


 戸惑いながらも、思考を整理するためにシャワーを浴びることにした。

 バスルームに入り、温かい水が体を流れると、少しだけ緊張が和らぐ。

 しかし、鏡に映った自分の姿を見た瞬間、叫び出しそうになった。


 そこに映っていたのは、鳴海亮介だった。

 まさに、テレビで見たあの整った顔立ち、若き『新時代連合』の党首の姿。

 どういうことだ? 

 一体、何が起こったのか。

 まるで夢の中にいるかのように感じたが、現実は容赦なく目の前にあった。


「なんだ、これは……」

 僕は思わず呟く。

 頭の中は混乱の渦。

 僕はどうして彼の姿になってしまったのか。

 記憶は曖昧で、ループのせいなのか、それとも他の何かが関係しているのか。

 深呼吸をしても、心の動揺は収まらない。


 心臓が早鐘のように鳴り響く。

 洗面台に手を置き、鏡をじっと見つめた。

 冷静さを取り戻そうとするが、目の前に映るのは自分ではなく、別の人生を生きている男の顔だった。

 この状況をどうにかしなければ。

 しかし、次に何をすればいいのか、全くわからない。


 新しいループが始まったのか?

 今までの僕はどうなってしまったのか?

 恐怖と不安が一気に押し寄せ、心がざわめく。

 僕は今、鳴海亮介として存在している。

 しかし、彼の記憶や感情は全くない。

 自分がどれだけこの状況を拒否しても、現実は無情だ。


「嫌だ、こんなのは嫌だ!」

 思わず声が漏れた。

 シャワーの音がそれを打ち消すが、僕の内心の叫びは消えない。

 鏡の中の自分を見つめるたびに、強烈な違和感が胸を締め付ける。

 この身体、この顔に何の意味があるのか。


 何があったのかも分からないまま、僕はこの新たな人生を強いられている。

 過去の記憶、経験、感情が全て消え去り、鳴海亮介の名を背負うことに。

 周囲の人々との関係も、この姿に相応しいものになるのだろうか。

 だが、今はただ、過去の自分がどうなったのか、それが気がかりでならなかった。


「僕は何をすればいいんだ?」

 心の中で自問自答するが、答えは見つからない。

 再びこのループに巻き込まれ、終わりの見えない迷路に突入したような気分だった。

 どうにかしてこの状況から抜け出さなければと焦るが、焦れば焦るほど何も見えなくなっていく。


「いい加減にしてくれ! これでも懸命に生きてきたんだ!」

 自分の中で怒りと悲しみが渦巻き、感情が溢れ出してきた。

 思わず声を上げたが、その声は虚しく響く。

 涙が頬を伝い、意識が遠のいていく。


 その瞬間、恵理の叫び声が耳に飛び込んできた。

「どうしたの? 気分が悪い? 救急車、呼んだ方がいい?」

 彼女の焦りと恐怖が入り混じった声が、何も理解できない僕をさらに混乱させる。

 目の前の現実がどんどん歪んでいく。

 何が起こっているのか、理解する余裕もない。


「恵理……」

 声を出そうとしても、言葉が喉に詰まってしまう。

 風呂場のガラス戸を開けると、彼女の表情は本当に心配そうで、こんな状態だというのに、僕は確かに嫉妬した。

 当然、僕には恵理の心配を受け入れる余裕などない。

 君が見つめているのは、僕であって、僕でない。

 からっぽのなにかだ。

 無力感が全身を覆い、頭の中は混乱の渦でいっぱいになった。


 身体が震え、涙が止まらない。

「こんなのはおかしい。何が正しいのか、どこで間違ったのか、正常なのか、異常なのか。もうわからない!」

 心の奥底からの叫びが、今度は目の前の現実に向かって放たれた。

 僕の声に応えてくれる者などいないのだ。

 目の前には、かつて愛し、憎まれ、忘れようとした女の顔があった。

 本当に美しい女がいた。


 ☆☆☆


 飛び起きると、いつものベッドにいた。

 周囲は見慣れた小さな部屋で、壁には雑多な本や資料が散らばっている。

 いつも通りの朝のはずなのに、心臓が異常に早く打ち、びっしょりと汗をかいていた。


 夢の中での出来事がまだ鮮明に残っている。

 高級ホテル、鳴海亮介、そして杉山恵理。

 何が現実で、何が夢なのか、頭の中が混乱している。

 深呼吸を試みるが、肺の中に空気が満ちる感覚がない。

 鼓動が早くなり、身体が震える。


「どうなっているんだ……」

 声に出して言ってみるが、まるで自分を落ち着かせるための呪いのようだ。

 何度も繰り返されるこのループの中で、何が実際に起こっているのか理解できない。


 汗を拭いながら、ふと窓の外を見る。

 朝の光が差し込み、青空が広がっていた。

「現実はここにあるはずだ」と自分に言い聞かせるが、胸の奥に広がる不安感は消えない。

 立ち上がり、何か行動を起こさなければと心に決める。

 無駄な混乱を振り払うため、昨日のことを思い出そうとするが、頭の中は霧のようにぼんやりとしていた。

 何が重要なのか、何をすべきなのか、全く見えないまま、僕はベッドに座って頭を抱えた。


 ☆☆☆


 電車に乗ってスマホを手に取り、画面をスワイプする。

 目に飛び込んできたニュースの見出しを見て、危うく落としそうになった――が、何とか持ち直す。


『スクープ:高級ホテルから運び出される新党の若き党首、鳴海亮介。付き添うのは国民的女優の杉山恵理!』


 心臓が強く打つ。

 今朝の出来事が現実だったのか?

 夢の中で見た光景が、そのままニュースになっている。

 脳裏に焼き付いていた彼らの姿が、まるで幻影のように思い返される。


「そんな馬鹿なこと……」

 声が漏れそうになるが、周囲に人がいることを思い出し、我慢する。

 恐怖感が胸を締め付けていた。

「じゃあ、何が本当に起こっているんだ?」


 周囲の雑音が耳に入らない。

 鳴海亮介が運び出された理由、杉山恵理が何をしているのか、

 疑問が頭の中で渦巻く。

 心がざわめき、不安が募る。

 スマホの画面をもう一度見つめ直し、詳細を読み込もうとするが、目が泳ぐ。


「このままじゃダメだ、何とかしなきゃ……」

 電車が次の駅に近づくにつれ、思考がどんどん混乱していく。

 自分の運命が絡んでいるのではないかと感じ、思わず身震いした。

 どうにかして、この現実を把握しなければならない。

 電車のドアが開く音とともに、僕はふらふらと、駅に足を踏み出した。

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