第28話 続・特性追跡者 1
「やはり、そうか……」
僕は呟き、スマホを閉じる。
午前中の講義は急遽休講にしてもらい、いつもの漫画喫茶へと足を運んだ。
外の喧騒から隔離された狭い個室に座り込み、考える。
あのスクープから、僕の頭は混乱し続けていた。
スマホのカレンダーを確認すると、鳴海亮介にループしたのが半月ほど前の日付だった。
そして、僕が元の自分に戻ってからちょうど一週間が経っている。
明らかに時系列がねじ曲がっている。むちゃくちゃだ。
時間は本来、川の流れのように一方向に進むものだと信じて疑うことなどなかったが、それが違うのかもしれない。
海の潮目のように、流れが急激に変わる瞬間が存在し、それに巻き込まれると凄まじい勢いで押し流されることもあれば、逆に僕のように後退することすらあるのではないだろうか。
その潮目に関与しているのが、サダコや鏡山村のご神体のような存在だという仮説が浮かんだ。
彼女の存在と、あの不可解な現象が何か重大な鍵を握っているはずだ。
「いや、しかし、まさか――そんなことが……」
僕は一人、声を押し殺すように呟いた。
現実味のない考えが頭をぐるぐると巡り、どうにも納得がいかない。
だが、それが事実である可能性も否定できないのだ。
個室の電話を手に取り、モーニングセットを注文する。
しばし、頭を整理するために目を閉じた。
冷静にならなければならない。
僕は、大海原にたった独りで挑んでいるような気がしていた。
☆☆☆
バー『ミラージュ』は、いつも通り薄暗い照明に包まれ、どこかレトロな雰囲気が漂っていた。
ほとんど自棄になって呑みに行こうと思ったら、自然とここに足が向いたのである。
夜の帳が降りた店内は、まるで古い占いの館のようで、不思議な安らぎを感じさせた。
壁にかかった鏡や、くすんだアンティークの家具が静かに輝いている。
バー『ミラージュ』のドアを開けると、ナベさんの大笑いが店内を揺るがせていた。
よし。帰ろう。
僕が再び、ドアをそっと閉めようとしたら困り顔のママと目が合ってしまった。
「あれれ? どうした。おい!」
ナベさんの声が響く。
あんたこそ、どうした――と訊き返したいが、僕は「いやあ。まあ近くまで来たもんでね」とヘラヘラ笑って、一番奥のカウンター席に腰を落ち着かせた。
「こっち来て、呑もう」とナベさんが誘うのを、横に座っていた初老の紳士が止める。
なにか言い返すのかと思いきや、ナベさんは驚いたように振り向いて「滅相もない」などと言っていた。
なんなんだ?
ナベさんは売れっ子の作家で、口が悪いことは周知の事実だが、その作品の評価が高く、どこか憎めない魅力を持っている。
今日もまた、彼の独特な存在感が店内を支配しているようにも見えるが――
ナベさんを簡単に手懐けた初老の男性が、僕の隣りのカウンター席に近付いて来た。
「よろしいでしょうか?」
穏やかな人だ。しかし、面識はないように思う。
「ええと――失礼ですが……」
僕が少し困ったような顔をしているのを見て、紳士は笑った。
「いつも、娘がお世話になっているようで。芸名で言った方がいいのかな? サダコという――」
「え? サダコ……さんのお父さまですか??」
「はい。私は――」
「ええ。存じています。武山先生ですよね?」
「ああ。ありがとうございます」
ナベさんがまるで相手にもならないはずである。
巨匠といってもいい作家が、僕の隣りに座っているのだ。
ナベさんが、ささっと僕の隣りに来て、くれぐれも粗相のないように釘を刺しに来た。
「出版社のパーティの帰りなんですが、面白い店があると渡辺くんが言うものでね」と先生が口を開く。
「紹介する必要もねえが、武山先生だ。お前も知ってるだろ、あの『異聞録』で名を馳せた大先生だぞ。今日は一緒に呑んでくださるって仰っているんだ。ありがたく思えよ」と、横柄な態度で僕に紹介した。
「お会いできて光栄です」
僕は少し緊張しながらも、深く礼をした。
作品を読んだことはあるが、まさかこうして一緒に呑む機会が訪れるとは夢にも思っていなかった。
先生は穏やかな笑みを浮かべながらも、どこか疲れたような眼差しで僕を見つめていた。
「いや、そんな堅苦しいことはしないでください」と軽く手を振った。
しばらく酒が進み、ナベさんが声高に自分の最新作『鏡のなかのひと』の話を始めた。
「そういや、『鏡のなかのひと』。こいつ、なんか監督に気に入られて出演することになったんスよ! 凄くないスか?」
ナベさんは豪快に笑い、さらに先生に向かってグラスを掲げた。
「先生、一緒に楽しんでくださいよ。娘さんも確か、芸人だか何かやってるんでしょ?」と、軽い調子で言い放つ。
その瞬間、先生の表情が一瞬固まったが、すぐにまた穏やかな微笑みを浮かべた。
「うん。まあ、娘が家を出て、好きなことをしているんだから結構なことだな。親としては心配だがね」と、先生は静かに語った。
「それにしても出演するのは凄い」と先生が言うと、僕は照れて頭を掻くしかない。
「あの話を読んで、ちょっと思い出したことがあってね」
「へえ。なんです?」
僕と先生が穏やかに呑みだしたのが気に入らないのか、ナベさんはソファ席へ戻って、またなにがおかしいのか大笑いし始めた。
「実はね、私は時間を戻ってきたんだよ」
先生は唐突に言った。
「は?」
まるで現実とは違う異空間で話をしているような感覚が、僕を襲った。
「すまない。あの小説の原案を書いた人がテレビで見てる、あのオカルト教授だと渡辺くんに訊いて……ひょっとして君も――いや……なんでもない……」
「私の小説はね、これからどんな流行が来るかわかっていたから書けたんだよ」
先生は、どこか楽しそうに笑いながら言葉を続けた。
その顔には少し赤みが差し、目がほんのりと潤んでいる。
少し酔いが回っているのかもしれないが、その言葉には一種の自負が込められていた。
「流行を予測して……ですか?」
僕は驚きを隠せず訊ねた。
普通、そんなことができる作家はいない。
未来の流行を知るなんて、まるで時間を超越しているような話だ。
「そう、本来の私は、売れない小説家だったんだ。いや、小説家志望のサラリーマンにすぎなかったね。何も知らないまま、ただ夢を追いかけていただけさ」と、先生はグラスをくるくると回しながら、過去を懐かしむような目で語った。
その瞳の奥には、かつての自分への未練や悔しさが微かに残っているようだった。
僕は言葉を詰まらせた。
「でも……」と何か反論しようと口を開きかけるが、先生はすぐに僕の言葉を遮るように続けた。
「誓って言うがね、パクリなんかはしていないよ?」
先生はまるで、僕が疑っているかのように早口で弁明し、少し笑みを浮かべた。
「ああ、私なりにプライドはあるからね。盗作なんてものには、手を出したことは一度もない」
その言葉に、僕は戸惑いを感じた。
未来を知っているという話と、盗作を否定する彼の言葉が、どこかチグハグに聞こえたからだ。
もしも未来の流行を知っているなら、それはある意味で盗作と同じようなものなのではないか?
だが、先生の表情からは、そんなことを気にしている様子はなかった。
彼の自負が、酔いに任せて言葉を軽くしているようにさえ見えた。
「……未来を知ることができたとしても、やっぱりそれを活かして書いた作品には、きっと先生の独自性があるんですよね」
僕は少し皮肉を交えつつ、先生のプライドを傷つけないように返した。
先生は、その言葉を受けてか、目を細めながら微笑んだ。
「もちろんさ。未来の流行を知っていることが、作品を生み出す全てじゃない。そこには、私の視点や感覚が加わることで、ようやく一つの物語が完成するんだよ」
先生は自信満々にそう言い、グラスを口に運んだ。
酔った先生の姿はどこか軽妙で、しかしその裏には何かを隠しているような感じもした。
僕は少し笑いながら、先生の言葉を反芻した。
「なるほど、未来を知っていることで自分の運命を変えたわけですね……」
「そういうことだな」と先生は少し得意げに笑って頷いた。
だが、その顔にはどこか複雑な表情が浮かんでいるのがわかった。
「でも……自分の人生を変えたとして、それで満足しているんですか?」
僕は問いかけた。
先生が語る「時間の流れ」を変えた話は、あまりに軽く聞こえたが、その裏にはきっと深い苦悩があるのではないかと思ったからだ。
すると、先生は急に視線を落とし、グラスを置いた。
「実はね……私だけじゃないんだ。私が時間を変えたことで、娘にも影響が出てしまった」
「娘さん……?」
「サダコだよ。あの子はね、二度、生まれてきたんだ」
突然の言葉に僕は驚いて声が出なかった。
ただ、先生の口から語られる次の言葉を待つしかなかったのである。
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