第26話 鏡のなかのひと 4
週末、ふとしたきっかけでまた『ミラージュ』に寄ることになった。
バー『ミラージュ』の内装は、まるで時間が止まったかのようにレトロな雰囲気を醸し出している。
照明は薄暗く、壁にかかったアンティークのランプが控えめに光を放っていた。
まるで占いの館にいるような感覚だ。
カウンターに並ぶクリスタルボールのような装飾品や、色褪せたタペストリーが、ただのバー以上の場所であることを暗示しているようだ。
僕が再訪したとき、店は静かで落ち着いていた。
先週は酔ってふわふわした状態だったが、今日はママとしっかり話せる気がした。
奥の席に腰を落ち着け、ウイスキーのグラスを手に取った。
音楽は古いジャズが小さく流れ、バー全体にぴったりと溶け込んでいる。
「あの人、大学の先輩なんですけどね。口が悪いのに打たれ弱いというか、無鉄砲なのに繊細なんです。昔から、よくわかんない人でしたけど、作家としては一流ですよ」
僕の昔話を聞きながら、ママは少し笑って続けた。
「私も好きよ、ナベさんの小説。あの見た目で、恋愛ものをいくつもヒットさせちゃうんだから凄いわ」
「確かに、あの風貌からは想像できませんよね」
僕はウイスキーを一口含みながら相槌を打った。
「ナベさん、結構売れっ子ですからねえ」
ナベさんの姿が頭に浮かぶ。
彼の外見は、まるで頑固な芸術家か、ヤクザの親分のような威圧感がある。
しかし、その見た目に反して、書くのは感情豊かで繊細な恋愛小説。
ママが言った通り、彼のギャップには驚かされる。
『鏡のなかのひと』の原案も、ホラーかSFにするからってことで提供したのに、できたのは、やっぱり恋愛ものになってしまった。
今日は先週、ナベさんが一生懸命、口説いていたチーママの姿が見えない。
「あの子はヘルプなのよ。忙しい時だけね」と、軽く笑っていた。
先週はかなり酔っ払っていたので店の雰囲気もぼんやりしていたが、今日は改めて落ち着いた気持ちで過ごしている。
ママの話が面白く、いつの間にか引き込まれていく。
「昔は実家が神社でね、霊力も少しばかりあるのよ」と、懐かしそうに話す彼女の声が店の静けさに心地よく響いていた。
「私、悪い彼氏に欺されて上京したのよ。もう大変でね」と、ママはため息交じりに過去の話をしながら、遠い目をしていた。
「そうなんですね」と相槌を打つと、彼女はふと笑顔を取り戻して続けた。
「でもね、私の占い、よく当たるって評判なのよ」
僕はウイスキーを一口飲み、かねてよりの疑問を訊いてみることにした。
「そういえば、占いがまったく当て嵌まらない。なんにも当たらない人っているんですか?」
ママは少し考え込んだような表情を見せた後、ゆっくりと答えた。
「それは……特別な人はいるわよ」
「へえ。例えば、どんな人です?」
「霊的な力を受け付けない人。普通、特別な人っていうと、パワーを持っている選ばれた人間を想像するじゃない?」
「そうですね」と僕は頷いた。
「違うの。そういう人たちは、超常的なものを“正常”に戻せる人なの。脱線した運命を元に戻す役割を、神さまから与えられた人。まあ、そういう人たちは仙人とか予言者とか、救世主とか、凄い存在よ」
その言葉に僕は何故か少し背筋が凍るような感覚を覚えた。
「ちょっと怖いな」と僕は呟く。
冗談のつもりだったが、どこか本音も混じっている。
「実際お会いしたことなんてあるの?」
半ば疑いながら訊ねると、ママは平然とした顔で答えた。
「ええ、あるわよ」
「は? え? 本当に?」
「ええ」と彼女は軽く頷く。
僕は心の中で驚きと戸惑いが入り混じる。
もしそんな人間が本当に存在するなら、それは朗報ではないか?
僕のこの状況――ループした人生や、絡み合った運命、それを覆すことができる人間がいるというのであれば。
だが、同時にそんな話が信じられるわけもない。
僕は眉間に皺を寄せ、少し焦燥感を抱きながら口を開いた。
「だったら……会わせてもらうわけには、いきませんかね?」
そう言った瞬間、口調が少し横柄になってしまったことに気づき、すぐに謝った。
「すいません。ちょっと言い方が悪かったかも。いや、ただの好奇心から会いたいというわけではなく――真面目に会いたいという意味ですよ? ご相談したいことがあって……」
ママは少し考え込むように、顎に手を当てながら沈黙した。
まるで何かを計っているような表情だ。
「連絡とってみるわ」と、彼女は静かに答えた。
その言葉が静寂の中で重たく響いた。
ママが静かに席を立ち、バックヤードへと向かう。
僕はカウンターでウイスキーを一口含みながら、彼女がどこかに電話をかけているのを耳を澄ませて聞く。
内容は聞き取れないが、時折低い声で短く返事をしているのがわかる。
数分後、ママが戻ってきた。
「いいって。明日で良かったらここに来てくれるって」
その言葉に、思わず手が震えた。
まるで現実感がない、映画のワンシーンのようだ。
だが、明日には僕が抱えているこの奇妙な状況――それを変える手がかりを持った人物と対面することになるのだ。期待と不安が入り混じり、胸がざわつく。
「ありがとう、ママ」
僕はなるべく冷静に答えたが、内心は落ち着かない。
「明日、楽しみにしてるわ」と彼女は微笑む。
その笑顔の裏に何か含みを感じたが、今は深く考えないことにした。
☆☆☆
朝、眠りが浅いまま電話の音で目が覚めた。
画面を見ると、バー『ミラージュ』のママ、
僕は少し驚きつつ、慌てて電話に出る。
「急で悪いんだけど、お昼過ぎに会えないかしら?」と、少し緊張した口調でママが言った。
「もちろん、構いません」と僕はすぐに答える。
おそらく、昨晩話していた「特別な人」に関することだろう。
これほど急に予定を変えるなんて、よほど重要な人物に違いない。
ママが敬っている相手なら、なおさらだ。
電話を切った後、僕はしばらくベッドで考えた。
ママは実家が神社という話もあったし、神職の方なのだろうか?
霊力の強い人物だということは、超常的な力に精通しているのかもしれない。
僕にとっても、この状況を覆す手がかりになる可能性がある。
「失礼のないようにしなければ」と、自然と身なりを整えることを意識し始める。
きっと普通の会話では終わらないだろう。
待ち合わせ場所の喫茶店に入ると、どこか落ち着かない気持ちが広がった。
てっきり高級ホテルのラウンジや格式ある店を想像していたが、選ばれたのは駅地下の喫茶店だった。
古い木製の家具に、壁の時計がカチカチと規則的に時を刻んでいる。
決して豪華ではないが、どこか懐かしさを感じる空間だった。
僕はママ、望月沙織と軽く雑談をしながら、その特別な人物を待っていた。
しかし、どうにも話が頭に入ってこない。
昨日の会話や、今後の展開について考えれば考えるほど、緊張が増していく。
特別な力を持つ人間に会うとは、いったいどういうことなのか。
僕に対する助言なのか、それとも警告なのか。
思考は巡り、言葉が上滑りしていく。
ママは微笑みながら、何気ない話を続けているが、その内容はほとんど耳に残らない。
僕は無意識に、何度も時計を確認してしまう。
時が過ぎるのが遅く感じられた。
その時、不意に喫茶店のドアが開き、つり下がった鈴がけたたましい音を響かせた。
思わず体が緊張し、目がその方向へ引き寄せられる。
音はあまりにも突然で、心臓が跳ねるような感覚があった。
ママが顔を上げ、ニッコリと微笑んだ。
「来たわね」と静かに言った。
僕は深く息を吸い、背筋を伸ばした。
これが例の人物なのだろうか?
店内の雰囲気が一変し、緊張がさらに高まっていくのを感じた。
☆☆☆
「待ちましたア?」と、どこかで聞いたような、間延びした声が響いた瞬間、僕は思わず硬直した。
嘘だ、そんな馬鹿な。
どうか冗談であってくれ。
振り返ると、目の前には異様な光景が広がっていた。
青い髪を振り乱し、着ぐるみから顔だけ出したサダコが立っていた。
着ぐるみ自体も何のキャラクターか判別がつかない。
「なんだ、これは」と思わず声が漏れた。
目の前の光景は、現実離れしていて理解が追いつかない。
笑うべきなのか、驚くべきなのか、それとも逃げ出すべきなのか判断がつかない。
何かの冗談だろうか。
目の前の光景が信じられず、言葉が出てこない。
しかし、僕が絶句している横で、ママはいたって真面目な表情でサダコに微笑んでいた。
「こちらの方が、特別な人よ」とママがしっかりと紹介している。
「え、ええ……」僕は何が起こっているのか理解できず、ただ頷くしかなかった。
サダコはいつもの様子で、どこか浮遊感すら感じさせる振る舞いをしているが、ママは真剣な面持ちでしっかりと対応している。
「なに? なんだ? どういう格好なんだ? それは?」
思わず僕は訊ねてしまった。
目の前の青髪サダコは、まるで気にも留めず、にこにこと笑っている。
「ああ、近くの幼稚園で営業してまして」と彼女はさらりと答える。
「歯磨き推進活動でね。私、今日、バイキンなんですって」
そう言うと、得意げに笑いながら、ふざけた様子で両手をひらひらさせた。
「アハハハハ」
僕は思わず言葉を失い、さらに驚く。
ママは、その光景を見ながらも冷静だった。
「サオリン、何スか? 用事って?」
僕の気持ちを代弁するかのように、隣に座ったサダコが訊ねる。
その後のことは、あまり覚えていない。
断片的に浮かんでくるのは、ママがサダコに「矛盾を正常に直す詔」だとか「聖なるナントカ」だとかを教えていたことくらいだ。
そして、僕がその「実験台」にされていたのだという事実が、ぼんやりと浮かんでくる。
サダコは相変わらず妙な格好で、しかもナポリタンを食べた直後の真っ赤な口元で、僕の顔をいじり回していた。
僕は放心状態で、抵抗する気力もなく、ただ為すがままになっていた。
サダコは楽しそうに笑いながら、僕の顔やら頭を弄くりまわし続けていた。
頭の中でただひとつ、考えがぐるぐると回る。
「なにが正常だ、異常しかないじゃないか」
この狂った状況の中で、何が「正常」なのかを理解しようとすることすら、もはや無意味に思えてきた。
サダコと別れ際、彼女が急に思い出したように言った。
「あ、そうだ。前くんと阿部ちゃんの写真が出てきたよ」
「は?」
僕は驚き、少し苛立って声を上げた。
「そんな大切なこと、最初に言えよ!」
サダコは悪びれる様子もなく、笑顔でカバンからスマホを取り出し、僕に手渡した。
その瞬間、写真を見て僕の心は凍りついた。
手が震え、画像の輪郭がかすかに揺れて見えた。
「いや、これは……」
僕は言葉が出なかった。
そこには、間違いなく僕の元の人生での上原雄介と、杉山恵理が一緒に写っていた。
二人は親密そうに、無邪気な笑顔で写っていたのだ。
動揺する僕をよそに、サダコは営業先の幼稚園に戻るため、笑顔で手を振りながら去っていった。
僕はその場に立ち尽くしていた。
胸の奥にあった違和感が再び鮮明になる。
この写真は、僕の過去と今のループに何か深い繋がりがあるのかもしれない。
「あのカップルが……上原と恵理に入れ替わっている? 彼らをサダコはなんで――」
頭の中が混乱していく。
あそこに写っていたのは、間違いなく鏡山村で行方不明になったカップルだったのだろう。
それなのに、僕が今さっき見たのは、なぜか上原雄介と杉山恵理の姿。
「これが……正常に戻ったってことなのか? でも、どういうことだ?」
頭の中は疑問で埋め尽くされ、何が現実で何が作り物なのか、全く判断できなくなっている。
これが「正常」だと言われても、全く納得がいかない。むしろ、状況はますます混沌としてきた。
「わけがわからない……」
僕は額に手を当て、深くため息をついた。
もしこれが本当に「正しい姿」だというのなら、僕の知っている現実が歪んでいたのか?
もしかしたら、今見ているこの世界そのものが、僕の知らない形で作り直されたのかもしれない。
頭の中で無数の疑念が渦巻く中、僕は呆然と動けないままだった。
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