第25話 鏡のなかのひと 3

 酔いが回ってきたナベさんに腕を引かれ、僕たちは雑居ビルの狭い階段を上がった。

 目の前に現れたのは、こぢんまりとしたバー。

『ミラージュ』と書かれているのは読めた。

 ああ。このレトロな感じの店だ、とぼんやり思った。


 ドアを開けると、少し暗い照明の下、カウンター越しに優しそうなママが微笑んでいる。

 飾り気のない、しかしどこか落ち着いた空間。

 僕はナベさんに続いてカウンター席に座った。


「ここのママ、占いが得意なんだよ」とナベさんがにやりと笑う。

「長谷川くん、面白そうな人生歩んでるだろ? せっかくだから占ってもらおうぜ」


「いやあ……」と僕は戸惑いながらも、内心少しだけ興味があった。

 上原雄介、新田悠也、そして僕。

 いったい僕の運命は、誰のものとして見られるのだろうか。

 すでに三つの人生を渡り歩いている、この曖昧で不完全な僕という存在。

 その運命線がどのように絡み合い、未来を形作っているのか――三人の記憶と人生が交錯する中で、僕はどこに向かっているのか、少し知りたい気もした。


「占っても良いですか?」と、ママが穏やかに尋ねてきた。


 僕は一瞬、躊躇しながらも「お手柔らかにどうぞ」と返事をした。


 彼女が手を差し出す。

「両手を見せてください」と微笑み、僕の掌を静かに見つめ始めた。

 僕は不安と興味が入り混じった気持ちで、彼女の目線をじっと見守る。

 彼女の指が僕の手のひらをなぞるように動くたびに、上原の記憶が頭の中で渦を巻き、新田の声がかすかに聞こえた気がした。


「これは……珍しいわね」と、彼女が口を開いた。

「あなたの運命線が三つ、交わっている――まるで三つの異なる人生が、一つに絡み合っているみたい」


 その言葉に僕は飛び上がるほど驚いた。

 この人の占い、当たるぞ――と。


「ちょっと、本気で占ってみてもいいかしら? お金なんてとらないから」

 ママが真剣に訊いてくる。

「ええ、もちろんです」と僕は身を乗り出して答えた。


 一方、ナベさんはウイスキーグラスを片手に、可愛らしいチーママと楽しそうにお喋りをしている。

 僕が占いに没頭していることなど、全く気にしていない様子だ。


 僕はカウンターに向かい直して深呼吸をした。

 ママが静かにタロットカードのデッキを出して、丁寧に切り始める。

 カードが滑らかに動き、その音がやけに耳に残る。

 まるでこれから起こることが、自分の運命を左右するかのような静かな緊張感が漂っていた。


「カードを三枚、引いてみましょう」とママが言う。


 僕は指先で慎重に一枚ずつカードを引いていく。

 彼女が裏返すと、そこに現れたのは「悪魔」、「塔」、そして「星」のカードだった。


「ふむ」ママは一瞬カードを見つめ、その後、少しだけ眉を寄せた。

「これは興味深いわね」


「興味深い?」


「悪魔のカードは誘惑や囚われ、物質的な欲望を表しているの。もしかすると、今のあなたは何かに囚われている。過去の思い出や、あるいは――なにか心当たりはある?」


 僕はその言葉にギクリとした。

 彼女の指摘はまるで、僕が抱える何重もの人生を見透かしているかのようだった。


「そして、逆位置の塔のカード」ママが指を滑らせて説明を続ける。

「これは破壊や衝撃的な出来事を示すわね。今、あなたが立っている場所は危うい……でも、カードが逆さまになっているでしょ?」

「ええ」

「トラブルが起きても、放置すると出ているわ」

「現状にしがみついて――ということですか?」

「……でもね」

 ママは最後に残ったカードを指し示した。

「この星のカードが希望を象徴している。あなたが誘惑や破壊を乗り越える行動をとると、その先に新しい未来が待っている」


 僕はウイスキーを一口舐めて「うん。まあ――」と返事らしい返事はしなかった。

 それは、占うまでもなく、至極、当たり前のことではないのかと思ったからである。

 欲望に負けず、トラブルは積極的に解決すれば良い。きっと上手くいくだろう。

 そりゃそうだろう。当然の話である。


 ママは穏やかに頷いた。

「そう、今のあなたは過去に囚われているかもしれないけれど、目の前には新しい光が見えているはずよ。そちらを選べば、未来は変わる」


 僕は「ありがとうございました」と言って、少々、期待し過ぎたことを反省した。

 上原、新田、そして僕という三つの人生が交差する中で、どこかで希望の光が待っていると信じたかったのだろう。


 その時、隣でブランデーを飲んでいたナベさんが振り向いて「どうだ? 面白いだろう?」とニヤリと笑った。


 ☆☆☆


 二日酔い気味で、僕は重い頭を抱えてベッドから起き上がった。

 昨夜の酒が尾を引いている。

 テレビをつけると、朝のニュース番組で見覚えのある顔が映し出されていた。


 若い女性たちが熱狂的に集まって騒いでいる。

 なんだ?


 僕は布団に頭を埋めながら、その名前に違和感を覚えた。

 どこかで会ったことがあるような……ああ、そうだ。

 最初の人生で、確か彼は――でも、うまく思い出せない。


 新田悠也として生きた二度目の人生で、彼に関する何か重大なスクープを取ったような気がする。

 だが、その記憶も曖昧で、頭がぼんやりしていた。

 なにか重要なことを忘れている感覚が、二日酔いの不快感にさらに重なって、僕を苦しめた。


 画面にアップで映った鳴海亮介なるみ りょうすけの顔は、まるで彫刻のように整っていて、見る者を引きつける魅力があった。

 僕の最初の人生、上原雄介のように。


 しかし、僕の中で生まれたのは懐かしさなどではなく、漠然とした恐怖だった。

 そうだ。僕は、この顔にすこしばかりの恐怖を覚えた。

 おそらく前のループで、僕は彼と深く関わり、そして何か嫌な事件にでも巻き込まれたのことがあったに違いない。


 心臓が一瞬ドクンと跳ねた。

 彼の笑顔の裏に、僕が知ってはいけない真実が隠されているかのような気がしてならなかった。

 この感情は、単なる二日酔いのせいではない。

 鳴海亮介、彼はただの後輩ではない。

 僕が忘れようとしている過去に、深く関わっている人物だ。


 ニュースキャスターは、画面に映し出された鳴海亮介の写真を指しながら詳細に彼の経歴を紹介した。

「――東京の名門、聖光大学を卒業後、アメリカのハーバード大学で公共政策を学びました。帰国後は内閣府に入省し、国家戦略局で政策立案に関わるなど、着実にキャリアを積んできました。その後、厚生労働省に転職し、医療政策や福祉制度の改善に取り組んできました」


「そして、ついに彼は昨年の衆議院選挙に立候補し、若干34歳という若さで、当選を果たしたのです。彼の魅力的な演説と政策提案は多くの若者から支持を受け、今や政界の新星として注目を浴びています――」


 と彼の華々しいキャリアが続く。

 画面には輝くような笑顔を浮かべた彼の写真が映し出される。


 しかし、何かが違う気がする。

 僕の記憶の中にある鳴海亮介は、この完璧なエリート像とは異なっていた。

 確かに彼は優秀で野心的な男だった。

 しかし、今感じるこの違和感は、彼の表向きの姿とは別の、もっと深い闇を知っているからだろうか。


 僕の頭の片隅に、何か重要な断片が引っかかっている。

 それは、僕が前のループで経験した鳴海のもう一つの顔かもしれない。

 しかし、具体的な記憶がぼやけていて、どうしてもその真実に辿り着けない。


「何かが違う」と、僕は呟いた。

 鳴海亮介の笑顔の裏には、まだ明らかにされていない真実がある。


 慌ただしい気持ちを抑えながら、洗面台の鏡に映る自分の顔を見つめる。

 二日酔いのせいか、目は腫れぼったく、髪も乱れていた。

 心なしか、思考も鈍く感じる。


 急いで歯を磨き、顔を洗い流す。

 冷たい水が顔にかかると、少しだけ目が覚めたような気がした。

 シャワーを浴びる時間はないので、さっと拭いて服を選ぶ。

 今日はカジュアルだが、きちんとした印象を与えるシャツとジャケットを選ぶ。


「これで行けるだろう」と独り言をつぶやき、最後に髪を整える。

 外に出る準備が整った時、ふと思い出すのは、昨日のナベさんとの酒席での言葉。

 彼が占い師に言った「面白そうな人生」をどう解釈すべきか。

 果たして今の自分は本当に「面白い」のか、それともただの道化なのか。

 考える余裕はないが、その思考は胸の奥で燻り続けていた。


 急ぎ足で玄関を出ると、外の空気が頬をなでる。

 今日は秋の心地よい風が吹いていて、少しだけ気分が晴れる。

 しかし、心の奥では鳴海の存在が重くのしかかっている。

 彼の野望や、上原との関係を掘り下げることで、何か新たな発見があるかもしれないと、自分に言い聞かせた。


 あの男は何者だ?

 最初の人生では優秀な後輩だったはずなのに、何かが変わってしまったような気がしてならない。

 新田悠也にループしたばかりのパニックを思い出し、再び同じような事態にはなりたくないと強く思った。

 僕はただオカルト教授としての平穏な生活が送りたいだけなんだ。

 昨日の夜のタロットカード逆さの『塔』のカードが頭に浮かぶ。

 現状維持でなにが悪い。

 そう思って駅へと急いだ。


 ☆☆☆


 いつもより一本遅い電車に乗って、揺れる車両の中で思い返す。

 鳴海亮介の顔をニュースで観た時の漠然とした恐怖。

 彼の整った顔立ちは、どこか冷酷さすら感じさせた。

 まるで彫刻のように美しく、しかしその美しさが逆に不気味さを増している。

 あの瞬間、僕は何かを忘れているような気がした。


 そうだ、僕には記憶がない。

 ループに入る前のことをまるで思い出せない。

 新田悠也の時に何が起こったのか、そしてどうやって今の“僕”になったのか。

 確信に近いのは他殺だ。

 僕は――新田悠也は、なにかに深入りしすぎて殺された。


 その記憶の欠如は、最も重要で、最も恐怖を覚える疑問だ。

 僕の心の奥底で、いつも鳴り響いている。


 あの恐怖と鳴海の顔がリンクしているのだ。

 鳴海は、もしかしたら僕の失った記憶の中に関わっているのではないか。


 彼は上原の後輩で、上原が新党『新時代連合』を立ち上げた時から側にいた。

 そんな彼が、僕の人生のどこかでどんな役割を果たしていたのか、全く思い出せない。

 逆に、彼の存在が僕にとっての不安の象徴になっているのだ。


 電車の揺れが心地よいリズムとなり、思考が少しずつ整理されていく。

 しかし、その一方で、鳴海に対する疑念がますます膨らんでいった。

 彼は僕の過去に何をもたらしたのか?


 いや。今の僕には関係ない、関わるなと自分に念じる。


 しかし、この念力は効かないだろう。

 頭の中で繰り返すほどに、鳴海亮介の存在が僕の心を乱す。

 逃げようとしても、心の奥底から湧き上がる不安が僕を引き止めている。

 僕はきっと動き出すのだ。二度目のループの時と同じように。


 ただし、今回は狂わぬように。

 前回のループでは、なにが起こったのか理解が追いつかず、パニックに陥り、生活が荒れた。

 その経験があるからこそ、今度は冷静でいようと決めている。

 心を整え、事実を直視するための準備をするのだ。


 僕はどこに運ばれているのだろう。

 外の景色が流れ、すぐに目的地に着くことを思い描く。

 だが、その先には何が待ち受けているのか、わからない。


 電車がゆっくり進んでいく中、先が見えないことへの恐怖が、逆に僕を落ち着かせていった。

 わからないからこそ、可能性が無限に広がっている。


 外の風景が変わっていくのに合わせて、僕の心も少しずつ変化している。

 どこかで運命が動き出す瞬間が近づいているのを感じながら、僕は自分の足元を見つめる。

 運命は、僕が何を選ぶかによって変わっていくのだと信じたい。

 目の前の道を自分で切り開くために、心の準備を整えなければならない。

 電車はゆっくりと進み続ける。

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