第24話 鏡のなかのひと 2

 車内の空気は、朝の急ぎ足がもたらす慌ただしさに満ちていた。

 助手席には、娘を幼稚園に送り届けた後の名残りが、少し乱れた毛布やぬいぐるみとして残っていた。

 運転席に座るなつは、ハンドルを握りながら、片手でハンバーガーにかぶりつく。

 パンの端が口元からわずかにずれ、かすかにソースが垂れたのを気にしながら、バックミラーをチラリと見やる。


 なつは少し疲れた目元に視線をやり、鏡の中の自分の顔をじっと見つめる。

 静かなため息が漏れた。

 ふと気がついたように、ダッシュボードに置いていた手鏡を手に取ると、さっと蓋を開け、簡単な化粧を始める。

 アイラインを素早く引き、リップスティックを唇に軽く滑らせる。

 その動きには無駄がなく、まるで何度も繰り返してきた朝のルーチンのように流れるようだ。

 なつの目は再びバックミラーに映る自分を見つめ、ほんの一瞬、その鏡の奥に何かを探しているかのような気配が漂っていた。


 ウインカーのカチカチという規則正しい音が車内に響く。

 彼女はウインカーレバーを下げながら車をゆっくりと発車させる。

 車が動き出すと、なつの横顔がフレームに収まる。

 窓越しに差し込む朝の柔らかな光が、彼女の頬に陰影を与える。

 ふと表情が引き締まる瞬間、鏡で確認した自身の姿が、まだどこか現実に追いついていないように見えた。


「カット!」

 監督の鋭い声がスタジオに響き渡った。


 瞬間、緊張の糸が解けたかのように、スタジオ内は一気にざわつき出す。

 音声チームはマイクを片付け、照明スタッフがライトを調整し直す。

 カメラアシスタントが次のシーンの準備に取り掛かり、誰もが黙々と自分の持ち場で作業を進めていた。

 メイク担当がすぐさま駆け寄り、恵理の顔にタッチアップを施し、彼女の髪の乱れを直している。


 なつを演じる恵理は、深呼吸をひとつしながら少し笑顔を浮かべ、スタッフたちと短い言葉を交わす。再び集中力を高めようとしている様子が、彼女の仕草から窺えた。


「次のシーン、行きましょうか」と監督が声をかけ、スタジオ全体が次のカットへと向けて動き始めた。


 ☆☆☆


 その日の夜、僕はナベさんと居酒屋で待ち合わせをしていた。

 薄暗い店内に漂う焼き鳥の香ばしい匂いが、疲れた体に心地よく染み渡る。

 席につくなり、ナベさんは早速訊ねてきた。


「で、どうだった?」


 僕は苦笑いを浮かべ、思わず深く息を吐いた。

「勘弁してくださいよ。朝は早いし、現場の緊張感も凄いんですから」


 ナベさんはビールジョッキを傾けながら、楽しそうに聞いてくる。

「本読みから参加してんだっけ?」


 僕はちょっと躊躇してから続けた。

「結局、出演まですることになっちゃいましたよ」


 するとナベさんは、目を丸くしながら「マジで? お前が?」と声を上げた後、大きく笑った。

「いやあ、行かなくて良かったあ。お前が代わりに全部引き受けてくれたみたいだな」


 僕は苦笑いを深め、目の前の小皿に並んだ枝豆を手に取った。

「本当に、ナベさんには一本取られましたよ。監修って聞いてただけなのに、なんで出演までしなくちゃならないんですか?」


「それが映画業界の不思議ってやつさ」とナベさんが軽く肩をすくめた。


「監督はホラー要素、多めにしたいみたいですよ?」と僕はビールを飲みながら訊ねた。

 ナベさんは一瞬考えたあと、「ああ、いいのいいの」と軽く言い放った。

「小説みたいに心理描写を前面に出すわけにもいかないんだし、映画は視覚的に訴える必要がある。そこは表現媒体の違いだろ?」


 僕は頷きながらも、どこか納得しきれない部分があった。

「そうですね。映画だからこその観せ方があるのは分かりますが、なんかやっぱり違和感があって」


 ナベさんは笑いながら「そういうもんだよ」と肩をすくめた。

「映画にしろ小説にしろ、どこかで折り合いつけなきゃならないもんさ」


「そうですかね」と言いながら、僕も納得するしかなかった。


 ナベさんがメニューに目をやり、「ああ、俺カシラとハツな」と注文を決めた。


「じゃあ、僕はネギマとつくねでお願いします」と店員に頼んだ後、しばしの沈黙が流れた。


「ああ、そうだ」と僕は思い出したようにナベさんに訊ねた。

「訊きたかったんですけど、なんで恋愛小説にしたんですか?」


ナベさんは僕の顔をじっと見た後、眉をひそめて「なに? 今さら?」と驚いた様子で返した。


「だって主人公のなつって、大変じゃないですか? 幼児抱えて、夫は死んじゃって、生活は回さなきゃならないし。ホラーって言っても、怖がってる暇なんてないでしょ?」

 僕は不満をぶつけるように続けた。


 ナベさんは少し考え込みながら、煙草に火をつけた。

「でもさ、そこがポイントなんだよ。人ってさ、ホラーみたいな非日常に出くわしても、実際はそれどころじゃない。生活があるからな。恐怖も現実も、同時に押し寄せてくるわけでさ」


「でもあの展開って――やっぱり、映像化はキツいんじゃないかなあ」と僕は言葉を選びながら返した。

「主人公が亡くなった夫とどう向き合うかっていう部分、リアルに描くのは難しいですよ。監督は乗り気みたいですけど」


ナベさんは静かに頷きながら「まあ、映画は違う畑だからね」と続けた。

「映像には映像の表現がある。小説みたいに内面を深く掘り下げるのは難しいけど、逆に映像だからこそできる表現もある。監督がどう料理するか、そこは興味深いな」


「そうですね」僕はぼんやりと焼き鳥を見つめながら、監督がどんな風にホラーと恋愛のバランスを取るのか、頭の中でシミュレーションしていた。

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