第一章
第9話 グッバイ追跡者 1
表通りに出た僕は、まだ眠りから覚めきらない街を見渡した。
早朝の東京は、いつもの喧騒とは違い、静かな落ち着きを見せている。
上原の言葉が頭の中で繰り返され、彼が語る「分岐」という概念が現実味を帯びてくるのを感じていた。
この現実と隣り合わせに存在する異界が、本当にあるのだとしたら……。
そう思うと、どうしても確かめずにはいられない衝動に駆られた。
「異界との境目に行ってみよう」
僕の口から、自然とその言葉が漏れた。
上原が示唆していた分岐の可能性、それを確かめるためには、自ら動くしかない。
歩きながら見つけた小さな喫茶店のドアを押し開けると、店内にはコーヒーの香ばしい香りが漂っていた。
まだ空いているテーブルが多く、僕は窓際の席に座る。
メニューに目を通し、モーニングセットを注文した。
トースト、スクランブルエッグ、ベーコン。食後にコーヒー。
シンプルだが、朝の活力を取り戻すには十分だ。
☆☆☆
注文を済ませて、喫茶店の静かな雰囲気に身を預けながら、僕はぼんやりと物思いに耽っていた。
コーヒーの香りが鼻をくすぐり、まばらな朝の光が窓から差し込んでいる。
店内はまだ静かで、僕の他には数人の客しかいない。
モーニングセットが来るまでの間、僕は自然と自分自身のことを考え始めた。
ループの最初、あれは何だったのだろう。
気がついたら、突然「僕」だった。
何も特別な予兆や前触れはなかった。
元の、上原雄介として生まれてからの記憶は確かにあったし、僕は僕として生きてきた。
しかし、死んで気がつくと――その瞬間から僕は何かが変わったことに気付いた。
目覚めるように、はっきりとした自意識がそこにあった。
前の人生では、ジャーナリストとして社会の裏側を追い求めた。
真実を暴こうと必死だったが、誰も僕の言葉に耳を傾ける者はいなかった。
そして、今のループだ。
時間がまたしても巻き戻り、当たり前のように大学の教壇に立って、若い学生たちに理論や思想を教えていた。
長谷川智也という大学教授と、僕の人格や記憶が混ざり合っていると言えばいいのか。
コーヒーにクリープを入れると別の飲み物になるように、僕は「僕」になっていた。
やはり、上原の手紙にもあったように死がループのトリガーなのか。
最初はただ、長谷川智也としての平凡な日々を送っていた。
大学教授としての肩書きに誇りを持ち、研究と講義に専念していた。
テレビ出演もあったが、それは学術的な番組に限られていた。
しかし、ある時から何かが変わり始めた。
自分の中に、別の「僕」が入り込んできた感覚があった。
混ざり合う感覚は、元々の長谷川智也という自分が薄れていくわけではない。
ただ、「僕」という新しい存在が、少しずつ自分の意識に侵入してくる。
そしてその影響は、思わぬ形で現れた。
テレビ出演は続けていたが、いつしかオカルト番組に呼ばれるようになった。
かつての自分なら、そんなものに興味を持つはずがなかった。
だが「僕」の人格が混ざり合うにつれて、次第にオカルトの世界に引き寄せられていった。
番組で語る言葉も、どこか自分らしくないものになっていくのを感じた。
鏡を見ると、そこには長谷川智也が映っている。
しかし、その瞳の奥には、別の「僕」が潜んでいる。
二つの人格が共存しながらも、どちらが本当の自分なのかが次第に曖昧になっていく感覚が、怖くもあり、どこか心地よくもあった。
大衆に笑いを提供し、時折辛辣なコメントを投げかける。
それでも、心の中では自分が何を求めているのか、はっきりとはわからない。
不思議なのは、僕の中にあるこの感覚だ。
生まれ変わるというよりも、前の僕の延長線上にいるような気がする。
何かが欠けていたものが、徐々に満たされていくような、奇妙な感覚。
まるで、無意識のうちに何かを追い求め、それに近づいているのかもしれない。
次第に、これまでの自分がどこかで重なり合い、一つの大きな流れを形成しているように感じていた。
☆☆☆
僕の思考が深まり続ける中、ウェイトレスがモーニングセットを運んできた。
目の前に置かれた、焼きたてのトーストとスクランブルエッグ、ベーコンのセットが現実に引き戻してくれる。
僕は静かに礼を言い、フォークを手に取った。
この小さな喫茶店の一角で、僕はまた新たな一歩を踏み出そうとしている。
欠けていた何かが埋まっていく感覚、その先に何が待っているのか。
それを知るためには、もう少し深く掘り下げていく必要があるだろう。
フォークを口に運びながら、僕は次の動きを考え始めた。
☆☆☆
熱いコーヒーを一口すすり、窓の外の景色をぼんやりと眺める。
通りを歩く人々が少しずつ増えていくのを見て、僕もまたその中の一人でしかないと感じる。
しかし、僕が知るべき真実は、この日常の中に隠れているのだろうか。
それとも、全く異なる世界にあるのか。
考え事に耽っていると、突然ポケットの中でスマートフォンが振動した。
ディスプレイを見ると、「サダコ」の名前が表示されている。
彼女の軽薄な声が頭に浮かび、僕はため息をつきながら通話ボタンを押した。
「おっはー! 師匠! 今、何してるの?」
いつもの明るい調子のサダコの声が耳に飛び込んでくる。
僕は少し眉をひそめながら返事をした。
「今、喫茶店でモーニングを食べてるところだよ。それがどうかしたのか?」
「うん、実はね。ネタがなくて困ってんの! 怪談とか心霊スポットの話、飽きちゃってさ。で、師匠がどっか面白いとこ行くなら、一緒に行きたいなって思って電話したの!」
サダコの無邪気な声が響く。
僕はその提案に少し考え込み、異界との境目に行くつもりだということを、ポロリと漏らしてしまった。
彼女の存在が多少煩わしくはあるが、一人で行くよりも気が紛れるかもしれない。
思わず話をしてしまったのは、サダコの無邪気さに、僕の中の不安を少しは和らげてくれる気がしたからかもしれない。
「……まあ、いい。一緒に行こう。ただし、取材の体を装って行くから目立つのは厳禁だ。まあ、君もいい大人なんだから言われるまでもないだろうが」
「イエーイ! ありがと、師匠! じゃあ、後で連絡するね! 楽しみにしてる!」
電話を切ると、僕は再びコーヒーに口をつけた。
サダコと一緒に行動することが、どんな結果をもたらすのかはわからない。
しかし、上原が示唆した分岐の秘密に近づくためには、この程度のリスクは覚悟の上だ。
やがて、僕たちの運命がどのように交差していくのか、気付く時が来るだろう。
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