第4話 いよいよ 醜愛

 日に日に暑さが増していく。しかし薫は今日も山に入る。薫の関係者から見ればさぞ狂っているように見えるだろう。目は虚ろ、ただただ山を目指して一心不乱。これでは都市伝説の被害者のひとりだ。

 しかし彼は正気を保っていた。あれ以降、山に入るとなぜかたまに彼女に遭遇するようになったのだ。そう、柳の下の彼女である。倒れる寸前にふと呼んでしまった薫は、それ以降彼女のことを「柳の君」と呼んだ。まさしく死装束は純白の単のようだったのだ。平安の姫君のように呼んでも問題なかろう、いやむしろ似合っているんじゃないか。そう自己陶酔しながら今日も「柳の君」の姿を見ていた。

 そして、気づいた頃には毎日毎日「柳の君」に見惚れている。少しずつ巡り会う頻度が高まり、ついに毎日出会うようになったのだ。

そしてとうとう、彼女が言葉を発した。

「あなたは誰なのですか。」

と。

薫は驚きながら必死で答えた。

「僕は北坂薫、26歳、漢字、かおるは難しい方の薫です、会社はIT系、在宅です。だから毎日あなたに会いに来れた。ついにお声が聞けた...。」

 透き通っている声。少し高めで、優しげな声色で発したため恐怖心よりも彼女の問に完璧に応えたいという欲求が勝った。

「そう...。」

今日はそれで終わりだ。

次の日。

「あなたは疲れないのですか。」

「あなたさまにお会いすることができたら疲れなんてどうでもいいのです。」


「柳がお好きなの。」

「いいえ、あなたの傍に立つ柳が好きなのです。」

「おもしろいひと。」


日に日に柔らかい口調になっていく「柳の君」。その事実が余計に薫の胸を高鳴らせた。

そしてついに。


「あなたはどなたなのですか、あなたはなぜ、こちらにいらっしゃるのですか。あなたはなぜ...薄い青色の月を見ているのですか。」


薫から声をかけたのだ。

「柳の君」は驚いて少し微笑んだ。


「わたしは名前なんてどうでもいいの。あなたの好きなように呼んでくださる。あの月は...あの人が好きと言ったの。ああ、わたしはまだ未練があるのね。先に死んだわたし。あの人はまだ生きているから。」


 薫は答えられなかった。「柳の君」には好きな人がいたのだ。そんなのこっちの方が好きなのに。でも彼女の願いを叶えて差し上げたい。とどのつまり、なんとも救いようがないことに、薫は「恋をする柳の君」が好きになったのだ。

 ああ、恋をしているから憂いを帯びているのだ。恋をしたから好きな人の指さした月を見ているのだ。恋をしているから、でも自分は死んでいて、近づけないし気づいてもらえない。だから悲哀の目をしているのだ。でも、そんな「柳の君」が好きなのだ。

 そうと決まれば早かった。「柳の君」の住んでいたところ、奴とのなれそめ...奴というのは「柳の君」の好きな人のことだ。やはり嫉妬心は拭えない。そして奴の今。「柳の君」の断片的な言葉から少しずつ情報を集めていく。ネットは自分の庭、そのような自負と狂乱しながら探し出す熱意から特定するに至った。

 「柳の君」の好きな人は「東透」。読み方は「あずま とおる」、出身地は鹿児島、今は「柳の君」の言う通り、この山からそう遠くないところに住んでいる。車で45分ほど。顔立ちは少し整っていて、爽やかなタイプだ。さぞモテるだろう。切れ長の目に長身。仕事は大手企業に勤めるサラリーマン。毎日アイロンをかけているであろうスーツを着こなす男。それでいて時計にはそこまでこだわず、庶民的な金銭感覚を持っている所もさぞかしモテただろう。

 そして、これは薫にとっては許せないことだが、妻がいた。妻の名前は「東咲」、「あずまさき」と読む。東京から東透に惹かれ着いてきた。

 住まいは一軒家。何も不自由していないようだ。夫婦仲は良好。仕事もまあまあ。

 後は興信所に頼ることにした。身辺調査はそちらの方が適任だ。それに生活パターンの把握には、自分が行うと漏れがあったのだ。もちろん薫にだって仕事がある。そちらも疎かにしてはいけない。不手際があって出勤の形態が変わり、毎日「柳の君」に会えなくなったらそれこそ大問題だ。


 結果は全くの白。ただ、ほんの僅かだが綻びがあった。妻の咲は夜に働く女だった。煌びやかな世界とはいいつつも、きっと何人もの男を、男だけではないだろうが、者たちを弄んだことだろう。


 しかしそれだけだった。悔しいが、あんなに美しい「柳の君」が惹かれる要素は充分に見つかった。深夜からネットに張り付いて掲示板を覗いては煽り煽られる自分とは正反対の、完璧な男を見せつけられて終わった。


 これは自己満足なのだが、一度自分の目で見たいというのも確か。ただ自分の首を絞めるだけだと分かっていながら、それでも「柳の君」に近づきたかったのだ。同じ男を見たという共通点を求めた。薫自身も自分で自分を気持ち悪いと思った。


 東透の休みの日。近所をぶらつくぼーっとした男を装い家に近づく。そして裏口の鍵をヘアピンで開けて中を覗いた。ああ、ああ、楽しそうに妻と話していますよ。興味を持って、知らず知らずのうちに会話に聞き入っていた。


「ねえ、ほんとに私で良かったの?あの女を捨ててさ。」

「当たり前だろ、つまんなかったんだよ。君との毎日は刺激的だ。あの女がせっせと働いている間も、ずっと君と一緒にいられて幸せだーとか考えてた。」

「ほんっとにわるいひとねぇ。そういう、完璧じゃないところも好きよ、わたし。」

「はは、毎日僕を完璧に仕立てあげて仕事に送り出す君がそれ言う?」

「というか何回この話を繰り返すんだい。さすがに頻度が高すぎるよ。暇な時はこんなことばっかり。」

「そんな、私の方が好きっていってほしいからに決まってる。あなたを不倫させないため。いつまでも好きでいてほしいのよ。ねえわかって?」

「全く、でも楽しいさ。君とこうやって、あの時のスリルを思い出すのも悪くないってさ。」


 薫は何もできなかった。そりゃそうだ。殺したくても殺せないしそんな度胸もあるはずない。ただ、そっと家を出て、忘れずにピッキングした鍵を締め直し、何も考えず車で帰ることしかできなかった。

その日、「柳の君」には会わなかった。


 布団に入るまで会話を反芻して、ようやく怒りが湧いてきた。奴、「柳の君」と交際している、いや結婚していたかもしれないが、不倫していたのか。その不倫相手が今の妻。だから悲しむことなくさっぱり、すぐに再婚できたのだ。いやなんだこれは。

 「柳の君」に陶酔していた薫には到底理解できない話。怒りとか、そういうものではない。ああ人って怒りすぎると冷静になるんだなぁと考えていた。「柳の君」は今も、死んだ後も変わらず奴を、東透を慕っていたのに。奴は「柳の君」のことを、今の女との会話の種にしている。あー苦し。苦しい。何がって「柳の君」が泣いている姿を考えることが苦しいのだ。もし真実を知ってしまったら。艶々の髪を振り乱して、月を見上げるでもなく俯いて白い手で涙を拭うのか。それともただただ呆然としてぽたぽたと涙を流し続けるのか。

それだけが、薫の苦痛であった。

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