第3話 愛と興奮

 暑すぎた。真夏の山なんて正気じゃない。なんて馬鹿なことをしたんだといらいらしながら薫は下山していた。持ってきたスポーツドリンクはとうに尽きた。あと少しだけ、もう少し歩けば見つかるかも、ここで帰って、実はあと数分歩けば見つかったなんてことになったらどうする後悔どころじゃないなんて思いながらつい進んでいたが限界を超えた。

 ふと看板を見ると、標高1キロメートルの文字。まだ帰れる距離にいる。そう安心した瞬間、足を滑らせて転げ落ちた。気絶して目を覚ました頃には満身創痍。傷だらけで全身がじくじくと痛む。体温は高く熱中症のような感覚だ。しかし水もない。絶望感に苛まれながら死を悟って静かに目を瞑るとかすかな清流の音。だらだらと血を流し続ける脚を引きずって進む。結局生に執着しているのだ。

 着くと湧水からしずしずと小さな川ができていた。無我夢中でその水に食らいつく。湧水とあってなんとも痛いくらいに冷たかった。ノイズ塗れの視界も鮮明になってきて目をふとあげたところに女がいた。続いて目に入ったのはみずみずしい柳。彼女を隠すように垂れている。そして川の下流には小さい橋だ。赤い。怖いというよりも、探し求めていた光景が目の前にあって信じられない感じだ。

 自分は死んだのかとさえ思ったが、死んでいるのは彼女のほうだ。とかどうでもいいことを思いながら、かといって何かをする訳でもない。カメラはとっくに落としていたし、見つかっても壊れているはず。帰るあてもない。ただ、ただ彼女たちを見つめることしかできなかった。

 頃は黄昏時。もうすぐ夜がやってくる。一晩明かした頃には生きているか死んでいるか。死ぬ前に少しでも彼女を目に収めたくて顔を上げると、彼女は噂通り空を見上げていた。数回瞬きをすると、三日月が見える。目線を彼女に戻すと、彼女はなんとも憂いを帯びて、まるで恋をするような目をしていた。

 薫は目が離せなかった。月に恋をする彼女に恋をしたのである。叶わない恋でもいいのだ。彼女が幸せなら。しかし彼女は哀しそうだ。叶えてあげたい。純粋に恋をしたことが初めてだった薫は、この彼女への欲求を恋と認識していた。そこで知ったのだ。彼女は人を誑かしているのではない。勝手に見た者が誑かされているのだ。勝手に探して勝手に見つけて勝手に見惚れて全てが彼女基準になる。それでまた会えないかと探し求めて山に入り遭難、または彼女のことしか考えられなくなって発狂、そういったところだろう。

 例に漏れず薫もそうだ。しかしひとつ違うところがある。彼女がちらりと薫の方を向いたのだ。目が合った。その瞬間に、どっと疲れがきた。倒れそうになる間際、彼女に

「ああ、柳、柳の下にいるあたなよ、あなたのためならなんでもする。教えてくれ、柳の彼女、いや、柳の君、いかないでくれ、僕のそばに...」

 手を伸ばしてそして完全に意識を失った。

そして起きた頃には白い天井に消毒の匂いがした。病院だった。

「倒れていたところを近所の人が助けてくれたんですよ。」

 薫はそう言われるまで理解できなかったが、自分は唯一、彼女に会って生還しその自我を保っている、ということにただただ興奮するだけだった。

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