第2話
濃い霧があたりを覆い尽くし、視界は真っ白に染まっていた。
奈々美は、必死にハンドルを握りしめ、前を見据えながら、ゆっくりとアクセルを踏んだ。
まるで生き物のように霧は車にまとわりつき、進むほどに重く、鈍い不安が胸を押しつぶす。
頭の中で何度も繰り返すのは、彩花が突然、霧の中に消えていった瞬間のこと。
「お姉ちゃん。どこまで行ったのよ?」
奈々美は小さくつぶやき、アクセルを強く踏み込んだ。
遠くから、かすかな音が聞こえてくる。
それは低いうなり声や、何かが這いずり回る音だった。
奈々美の手が汗ばみ、ハンドルが滑りそうになる。
恐怖と焦りが交錯し、呼吸が浅くなっていく。
急に、車がガタガタと揺れ始めた。
エンジンが不規則な音を立て、ライトが一瞬、暗くなった。
「うそ! やめて、まだ動いて――お願い……! ダメ! ダメ!」
奈々美は祈るように呟きながら、エンジンを再び吹かす。
しかし、次の瞬間、車が大きく揺れ、エンジンは悲鳴のような音を立てて止まった。
車内が急に静寂に包まれていく。
「エンスト……」
奈々美は信じられない思いでキーを回すが、エンジンは応答しない。
霧がじわりと車内に迫り、外の不気味な静けさが全身を覆い始めた。
「しっかり。しっかりして! お姉ちゃんを取り戻すんだから!」
気合いを入れたは良いが、奈々美は車を降りる勇気が出せず、このまま助けを待つという考えが頭をよぎる。
誰が助けに来るというのだ。
娘たちが帰宅しないのを両親が心配し始めるのは、おそらく真夜中を過ぎてからであろう。
小学生でもあるまいし、夕方に社会人と大学生の二人が帰ってこないと、心配する親などいまい。
遠くで微かな物音がした。何かが霧の中で動いている。
足が前に動かない。
行くしかない。
決意を固め、奈々美はドアをゆっくりと開けた。
冷たい霧が顔に触れ、全身に恐怖が走る。
奈々美は震える足で、街に一歩を踏み出した。
☆☆☆
町は無限に広がっているかのようで、どれだけ歩いても陰鬱な風景が延々と続いていた。
建物は歪み、夕陽がいつまでも町を真っ赤に染めている。
夕陽が沈む気配がない。
もう何日過ぎただろう。
いや、車からさっき降りたばかりだったか。
時間の感覚がおかしい。
どこを、どう歩いているのか、わからない。
☆☆☆
彩花を見付けたのは、まったくの偶然だった。
奈々美は、それは偶然だと思おうとした。
何者かの作為を疑っても切りがない。
なにより、せっかく見付けた姉を追いかけないわけにはいかぬ。
彩花はまるで何事もなかったかのように普通に歩いていた。
「待って! お姉ちゃん! 待ってってば!」
しかし、彩花は奈々美の呼びかけに応じず、無言のまま街の中心部に向かって歩き続ける。
奈々美がようやく彼女に追いついた時、彩花は古びた鳥居の前で立ち止まり、振り返って奈々美に冷たい目を向けた。
「来るなって言ったよね? わたし、あなたに言ったよね?」
彩花はものすごい力で奈々美の腕を掴んだ。
「痛い! お姉ちゃん! 痛い!」
「わた――わたし。来るなって。来るなって。言ったのに――」
彩花の顔から表情がなくなり、それから急に叫びだす。
「言ったのにいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!」
彩花は髪の毛を振り乱して絶叫した。
「神さまのところへ行こう」
「なに言ってるの? 神さま?」
彩花が腕を掴んで境内へと上がっていく。
鳥居をくぐると、町中でさえ不気味だったのに、もう一段、寒気まで加わった。
彩花は一言も言葉を発さず、ただ無言で奈々美を導いていく。
姉の手は冷たく、どこか現実離れした感触がした。
逃げ出そうと考えたが、体はまるで麻痺したかのように動かない。
道は次第に細くなり、周囲の景色も不気味さを増していった。
道の先に、ぼんやりとした光が見えてきた。
目を凝らすと、それは古びた鳥居だった。
苔むした石段の先にあるその神社は、まるで長い年月を経て人々に忘れ去られた場所のようだった。
鳥居をくぐった瞬間、冷たい風が吹き抜け、奈々美の体を震わせた。
神社の境内にたどり着くと、そこには古びた社がぽつんと立っていた。
社の前には、不気味な供物がいくつか置かれている。
生気のない果物、黒ずんだ土器、そして何かを象った形のわからない彫刻。
奈々美は恐怖で声を震わせた。
彩花は奈々美を供物の前に立たせた。
そして、冷たい目で妹を見つめる。
その目には、感情の色が一切見えなかった。
彩花が何かを呟き始めていた。
意味不明な言葉が奈々美の耳に流れ込み、彩花の言葉は次第に強く、早く、そして狂気じみた響きを帯びていく。
突然、風が強く吹き、周囲の木々がざわめき始めた。
奈々美の体が急に重くなり、動けなくなった。
その瞬間、社の扉が音もなく開き、中から何かが這い出してきた。
薄暗い光の中で、その姿がゆっくりと現れる。
それは、形のない何かだった。
まるで黒い霧のように広がり、奈々美に近づいてくる。
恐怖が全身を貫き、声を上げようとしたが、彩花に喉を塞がれて言葉が出ない。
妹の首を締めたまま、彩花は冷ややかな笑みを浮かべ、その黒い霧に向かって奈々美を押し出した。
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