第3話

「先生、知ってる?」

 いつの間にかベテラン教師といわれる年齢になった。

 教壇に立たなくなって久しいのに、生徒から話しかけられるのは嬉しいことだと黒川は思った。


 長い教師生活の中で、多くの生徒たちが通過する思春期の悩みや夢見がちな行動に慣れていた。

 特に、想像力豊かで奇妙な話をする子供たちには、優しく接しつつも現実を教えることが大切だ。


「影町ってね。ずっと夕方なの」

「なんだい。それ?」

「それで、お化けしかいない町なの」

「人間は?」

「いても死んじゃうわけ。それで、お化けの町」

「ふうん。それは怖いね」


 黒川が教師になったばかりの頃、学校の怪談といえば七つと決まっていたが、近頃の子供たちはネットでいくらでも怖いうわさ話を仕入れてくるため、付いていくのに苦労する。


「調べ事ですか、教頭先生」

 スマホを弄っていると、若い教師が話しかけてきた。

「影町って知ってるかね? 三年生の子に教えてもらったんだが」


「ああ。影の消えない町のことですか? 都市伝説みたいなものでしょう」

「トイレのなんとかさんとか、そういう類いの?」

「ええ。私も昔、調べました。教師としては、生徒にうわさ話を聞かされても、対応に困るんですけどねえ」


 ☆☆☆


 夕焼けが校舎の窓を染める中、小学校は静まり返っていた。

 生徒たちはすでに帰宅し、校内は一日の喧騒が嘘のように静寂に包まれている。

 黒川は、職員室のデスクで書類整理をしていた。

 静かな放課後は、黒川にとって唯一落ち着いて仕事ができる時間である。


 ペンを走らせていると、ふと何か聞えた。

 遠くから聞こえる、微かな足音。

 廊下を歩くようなその音は、明らかに人の気配を感じさせた。

 黒川は顔を上げ、耳を澄ませたが、足音はすぐに消えた。


「風か何かの音だろう」と思い直し、再び仕事に集中しようとしたその時、今度はもっとはっきりとした音が響いた。


「下校時刻はとっくに過ぎてるぞお――誰かいるのかあ?」


 誰かが廊下を歩いている。

 ゆっくりと、確実に近づいてくる音だ。

 黒川は立ち上がり、戸惑いながら廊下へと足を向けた。

 おかしい。

 居残っている生徒が教師の声を聞けば、急いで逃げ帰るのが普通の反応だろう。


 薄暗い廊下に出ると、夕日の残照が廊下に長い影を落としていた。

 誰かがそこにいる気配はないが、足音は確かに聞こえる。

 黒川は音のする方向へと歩いて行った。


 校庭へと続く角を曲がった瞬間、黒川は立ち尽くした。

 廊下の先に、小さな女子が立っていた。

 古びた体操服を着た少女は懐かしさを感じさせるものだった。

 その顔はどこか不自然で、影の中に隠れて表情が見えない。


「まだ下校してなかったのか?」


 黒川は声をかけたが、女の子は答えず、ただじっとこちらを見つめていた。

 その静けさと冷たさが、妙な寒気を彼に感じさせた。

 ゆっくりと近づくと、女の子は一歩、後ずさりした。


 その動きに、ふと不安が胸をよぎる。

 黒川はもう一度声をかけようとしたが、言葉が出ない。

 女の子は静かに振り向き、再び廊下の奥へと歩き出した。


 黒川は無意識にその後を追った。

 廊下を曲がり、階段を上り、女の子の姿を目で追い続けた。

 どこまでも続く階段を上り切ったとき、突然、音が消えた。


 目の前に広がっていたのは、使われていない教室の並ぶ古い棟だった。

 夕日が沈み、光が薄れていく中、古びた教室は時間が止まったかのように静まり返っている。

 背後から誰かの囁き声が耳元で聞こえた。


「お姉ちゃん――」

 遠い昔、確かに聞いた声。

 仲の良い姉妹の妹。奈々美。

 彼女たちが、行方不明にならなければ、姉の彩花と黒川は結婚していたかもしれない間柄だった。


 三十年も前に突然、ドライブに出掛けたまま行方不明になって大騒ぎになった。

「ねえ」

 背後から声をかけられて、黒川は飛び上がって叫び声をあげた。


「神さまにお願いする?」

 さっきの少女だ。

 今度はなんのうわさ話に影響されているか。

「悪戯はやめなさい。あのね……」

 黒川が口を開くと、遮るように少女が言う。


「神さまに、なにを、お願いするの?」

 少女の黒い瞳はぐるぐる回る。

 奈落の底まで落とされるかのような――漆黒の瞳。


「かえしてくださいって」

 黒川はぞっとした。

 この少女は心の声でも聞こえているのか。


「お願いしてみて」

「かえしてくださいって」

「さあ。言って。お願いして」


 黒川はお願いした。









 異界の神に。

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