影町ドライブ

たま

第1話

 早朝の陽光が静かに車内に差し込む。

 奈々美が窓を少し開けると、爽やかな風が顔を撫で、昨日までの重たい空気を吹き飛ばしてくれるようだった。

 通り過ぎる風景は、まだ静かで、朝の新鮮な光を浴びて輝いている。遠くの山々は澄んだ青空の下、くっきりとした輪郭を描いている。道の両側には田畑が広がり、朝露に濡れた草がきらきらと輝いていた。田んぼの水面には空の青さが映り込み、まるで絵画のように美しい。


 空気は澄み切っていて、遠くの山並みもはっきりと見渡せる。車内に流れる静かな音楽が、景色と共に心地よいリズムを作り出していた。


 太陽が徐々に高く昇るにつれ、風景は少しずつ色彩を増していく。木々の緑は鮮やかさを増し、川の水は朝日の反射で眩しくきらめいている。車は滑らかにカーブを曲がりながら、まだ眠っている町を抜けていく。朝の光が車のボンネットに反射し、まるで道案内をするかのように輝いていた。


「ねえ。怖い話してもいい?」

「なんで? 朝から? やめてよ。もう!」

 この年頃の姉妹にしては仲の良い彩花と奈々美。

 大学生になって受験勉強から解放された奈々美は、彩花のドライブに誘われ、すぐに了承した。

「気持ちいい朝なのに」

「そこで気持ち悪い話よ」

 怖がりの奈々美を怖がらせるのは、いつだって彩花であった。

 二人でキャアキャアと笑い合いながら、彩花のたわいないうわさ話に耳を傾ける。


「昭夫くんでしょ? お姉ちゃんに、そんな話したのって!」

「ええ? どうかなあ?」

 姉がとぼけても奈々美は知っているのだ。

 定時で帰ってきていた彩花の帰りが、このところ微妙に遅くなっていることに。


「いいなあ。お姉ちゃん、モテるもんね。昭夫くん。格好いいし」

「あんたも眼鏡やめて、コンタクトくらいしな。メイクは私が教えてあげるから」

 奈々美はもじもじして、彩花を見ると「うん」と頷く。

「でも、私はおばけの町の話しない彼氏見付けるから」

 彩花は妹の髪をくしゃくしゃにして撫でた。


 ☆☆☆


「え? 降りるの?」

 奈々美が声をあげたのも無理はない。

 サービスエリアで軽食を済ませた後、車に乗り込んで出発すると、彩花は猛然とアクセルを踏んで、すぐに高速道路から降りてしまった。

 下道に出て、彩花は前方を凝視したまま直進しだす。

「お姉ちゃん。待って! どこに向かってるの?」

 道は次第に荒れ、木々が生い茂り、まるで自然が侵食しているようだった。

「ねえ! お姉ちゃん! ダメだよ! こんなところ行きたくない!」

 車内に漂う不安な空気が増し、奈々美は必死に彩花の腕を叩くが、引き返すにも道がどんどん変化していく。


 ☆☆☆


 霧が濃く立ち込め、視界がほとんど見えなくなっていく。

「ちょっと! どこよ。ここ!」

 我を取り戻した彩花が、目をパチクリさせて奈々美を見て叫ぶ。

「は? なに言ってんの! お姉ちゃんが運転して来たんじゃない!」

 わけがわからないのは奈々美も同じ、いやそれ以上である。


 彩花は妹がパニックになっていると思って、飲み物を手渡し、落ち着かせようとした。

「本当だって! お姉ちゃん。完全にイッちゃってたんだから!」

「馬鹿言わないで!」

 彩花は大声を出して、はっとする。現状を考えれば、妹の言うことを肯定せざるを得ない。

 まるで現実世界から切り離されたように感じる中、奈々美は二人で、ドライブレコーダーの映像を確認することにした。


 そこには、奈々美たちが通ってきたはずの道ではなく、まったく異なる風景が映し出されていた。

 ごくりと唾を飲む音が聞こえた。

 二人は茫然自失として声も出せない。

 荒れた山道ではなく、暗く湿った地下通路や、朽ち果てた街並みが次々と現れる。

「お姉ちゃん。これ変だよ。こんなところ、走ってない。走ってないよ。私、覚えてないもん!」


「お姉ちゃん! ねえ! ここ、どこなの?!」

 映像には、目を覆いたくなるような異形の生物が車を追いかけてくる映像や、存在しないはずの人影が窓に映り込む瞬間もあった。


「確かめてくる。あなたは車から出ちゃダメよ。念の為、運転席にいて。免許証は持ってきてるでしょ?」

 彩花は意を決したように車から飛び出した。

「お姉ちゃん。ダメ! 戻って!」

 奈々美は霧のなかに消える彩花を追いかけようとするが、なにかの咆吼が奈々美の足を止めさせた。


 うなり声が聞こえる。

 野犬か、熊か。

「ちょっと待って。熊が出るの? お姉ちゃん!」

 慌てて携帯電話を取り出すが、電源が切れている。

「嘘! 充電したばかりなのに!」


 車のフロントガラス越しに見えるのは、ただ濃い霧だけだった。霧はまるで生き物のように、ねっとりとまとわりつき、視界を覆い尽くしている。

 ヘッドライトの光は霧に吸い込まれ、わずか数メートル先も見えない。

 アクセルを踏む足が自然と重くなり、車はゆっくりと進んでいく。

 春にとったばかりの運転免許が役に立つのも、運命を感じずにはいられない。

 導かれるように、まるで引き寄せられるかのように辿り着いた知らない町。


 ドライブレコーダーは壊れたように、ノイズ混じりの映像を映し続けている。 

 画面には時折、何かが映り込むが、その正体は定かではない。

 ひび割れたガラス越しに映る影は、明らかに人間とは違う異形の存在だった。

 まるで、こちらを監視しているかのように、車の周りをうろついている。


 街の中をさらに進むと、道路はますます荒れ果て、足元から伝わる車の振動が不安感を煽る。遠くから微かな音が聞こえてくる。

 何かが這いずり、うごめいている音だ。

 車のライトが偶然にその方向を照らすと、異形の怪物が、歪んだ顔でこちらを見つめていた。

 巨大な瞳、歪んだ口、無数の触手。ありえないほどの大きさで、まるで悪夢から飛び出してきたかのようだ。


 私はなにを見ているの?

 怪物。怪物の町だ。

 ドライブレコーダーはノイズまじりの音がなるばかり。車内に緊張感が満ち、呼吸さえも浅くなる。

 両目を閉じて、蹲りたい。

 逃げたいという衝動が全身を駆け巡るが、この霧の中で逃げ場があるのかどうかもわからない。

 ただ、進むしかない。姉を捜して、それから――


 次第に町の様子がさらに異様になっていく。

 建物はひしゃげ、窓から覗くのは明らかに人間とは違う何か。

 歪んだ人間たちが、顔だけをじっとこちらに向けている。

 目が合った瞬間、彼らはまるで引き裂かれたかのように笑い出し、その不気味な笑みが耳にこびりつく。まるで、この町が生き物であり、こちらの恐怖を楽しんでいるかのようだ。


 進むたびに霧はさらに濃くなり、周囲の影がますます現実感を失っていった。

 人間はあまりに恐怖心が昂ぶると、思考が閉ざされていく。

 正気を保て。正気を保て。

 奈々美は自分に言い聞かせて、アクセルを踏んだ。

 車は、まるで重い何かに押しつぶされるように進んでいく。

 誰かが、いや何かがこちらに近づいてくる気配がする。

 全てがねじれ、狂い、逃げ場を失った世界の中で、ただ一つ確かなのは、この町が人間のいる場所ではないということだった。


 ドライブレコーダーのノイズが消えた。

 こちらに向かって何かを叫んでいる誰かの影が映し出された。

 長い髪。綺麗な女性のシルエット。

 ドライブレコーダーのなかで、姉は必死に叫んでいた。

 こっちへ来るな――と。

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影町ドライブ たま @tama241008

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