88.向ヶ丘遊園の思い出
第88話
昭和2年、小田急が開通した時、二ヶ領用水の流れる地に小田急は遊園地を作った。
向ヶ丘遊園である。戦前の向ヶ丘遊園は入場料は取らなかった。稲田登戸駅(現、向ヶ丘遊園駅)から遊園地まで開業と同時に「豆電車」が走り人々を輸送したという。大戦で荒廃した為、昭和22年から復興工事に取り掛かり、昭和27年大人10円の入園料を取るようになった。当時は封書8円、はがき5円の時代である。やがてその推移を見ていこう、昭和42年には大人入場料80円、(封書20円、はがき10円)
昭和51年大人入場料250円(封書50円、はがき20円)昭和62年大人入場料300円
(封書60円、はがき40円)そして平成14年は大人入場料500円(封書80円、はがき50円)となっている。長らく客を運んできた「豆電車」は昭和41年、県道の改修工事に伴い電車の敷地が道路になったのに伴ってモノレールになった。このモノレールは平成12年に至るまで大人片道100円、往復160円の料金で人々を運んだのである。
なだらかな音楽に乗ってダイエーを横目に見ながら3分で遊園地に着いた。
そして、その下に隠れるようにどぶ川と化したのが二ヶ領用水である。
宿河原で多摩川から取水し、南武線久地駅近くで合流し、稲毛、川崎の二地区を灌漑するための用水でその名もこれに由来する。向ヶ丘遊園はアイススケート、プール、花見、楽焼などが催され、人々は数万人が詰め掛けた。が、東京ディズニーランド開業以降状況は一変した。人々は向ヶ丘を娯楽の場所としなくなった。そのため、昭和の時代でも階段にひびが入っていたのである。しかもそれを塗ろうともしなかった。しかし、他の場所から比べればまだまだきれいで広かった。隣にボウリング場やゲームセンターもあった。友達が少ない私はよく一人でスケートをしに来ていた。だが、平成不況はこの伝統ある遊園地にも襲い掛かった。
向ヶ丘遊園は見る間に客足が落ち、施設が老朽化していった。
まずモノレールは老朽化がひどく、平成12年に運行停止し、そのまま翌年廃止された。が、これは向ヶ丘の悲劇の序章に過ぎなかった。向ヶ丘の客はほとんどがモノレールを利用してきており、わざわざバスや歩いて15分もかかるほど歩く人は少なかった。これに不況の深刻化や相次ぐレジャーの縮小などが拍車をかけた。そして平成14年3月31日、向ヶ丘遊園はその65年の歴史に幕を閉じた。
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