72.渡辺小華と崋山
第72話
渡辺華山、非業のうちに死を遂げた不遇の画家として知られているが、
その次男、渡辺小華についてはほとんど知られていない。
この親子も、豊田佐吉・喜一郎親子と同様に、息子のほうが業績を多く残したにもかかわらず親ほどに息子の存在が知られていない例だ。
渡辺小華は、初め父譲りの才能を生かして画家を志していたが
父、崋山の跡を継いだ兄の急逝で田原藩家老職に就任し、明治維新に際し
数々の引継ぎ作業をこなした。
ようやく明治の世が落ち着いてきた頃になって、小華は楽隠居の身で
日本画を描き始めた。父の時代と違い、もはや父を罰した幕府もない。
だが、そんな時代よりは生活は苦しかった。武士の身分と定収入を失った上
自由に絵が書ける世の中になったとはいえ、文明開化の時代ではなにもかも
西洋文化一色で日本画はさっぱりだった。狩野芳崖といった一流の日本画家さえ明治初期は食うに困っていたほどだから、小華に声がかかるはずがなかった。
後にフェノロサと岡倉天心が世界に日本美術のすばらしさを伝え、明治後期から一躍日本画が脚光を浴びるようになるのだが、すでに小華はこの世の人ではなかった。明治20年に亡くなっていたのだ。
だが、崋山より小華の方が日本画壇に残した功績は大きかった。
小華は40名あまりの弟子を育て、弟子たちは明治後期から終戦にいたるまで
生き続け、そして絵を描き続け、活躍し続けたのである。
「尾張名古屋は芸どころ」そううたわれるほど愛知県は芸事が盛んな所であった。子に金を与えるより芸を与えるほどだった。なぜなら金は使えばなくなるが、芸は使えば使うほど上達する。
だが、芸事と歴史には共通点がある。
それは人が人に向けて作るものであること。そして、「大成」というものはあっても決して「完成」がないことだ。
芸と歴史に完成は無い。次の世代へ人間が引き続いて作り続けるものなのだ。
そして、その中で人々がたゆまない改良を加えて、今日の私たちが目にする
芸や歴史がある。そしてその後の世代に引き継ぐときまでに私たちが改良を加えなくてはならない。その積み重ねで歴史が作られていく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます