65.児島湾干拓物語
第65話
岡山市の南側には遠浅の広い児島湾があった。
もし、この海を広い大地に変えられたなら、人々はそう考えていた。
その一人、岡山城主、宇喜多秀家が最初に児島湾の干拓工事に着手した。
400年前のことである。この工事は江戸時代になっても、初代岡山藩主、池田光政とその子孫により幕末にいたるまで連綿と続けられていった。
さて、明治の世になると、実業家、藤田伝三郎が建設会社「藤田組」(現、フジタ)を起こした。
明治14年、岡山県知事が藤田組に児島湾の干拓工事を依頼した。
その間、補償交渉があり、明治28年になってやっと工事が始まった。
児島湾の干拓は大規模なものだった。当時、伝三郎は大阪でいくつかの
工業会社や、払い下げの鉱山をいくつか持っていた。
その利益を全部児島湾に投じる気でいたという。
まず、海底に砂や砂利を投入し、基礎工事を行い、堤防を造り、
干拓を進めた。児島湾は台風の時は波が荒くなり、潮の干満も大きく、
堤防が崩れたのは一度や二度ではなかったという。
だが、伝三郎はくじけることはなかった。
そして伝三郎72歳の時、1912年、児島湾に1200ヘクタールの干拓地を作り上げた。
この土地は「藤田農場」といわれ、農民に借地料を取って貸す「小作地」と
働き手を外から雇って働かせる「直営地」に分けられた。
藤田農場は数々の成果を上げた。
渡辺技師が作った水路を利用した「脱穀船」や塩分に強い稲「藤旭」などを作り上げた。
また、脱穀したばかりのもみを持ち込み、もみすり、精米、軽量、俵つめまでを一つの建物でやった。これは後に「ライスセンター方式」といわれ、日本では昭和50年代から一般化したが、藤田農場ではこの頃から行っていた。1944年、この干拓の仕事は藤田組から国に移される。
そして1952年に2000ヘクタールの干拓地ができ、農家がそして工場が作られていった。
だが、さまざまな問題が指摘された。
海水のしぶきで作物が枯れたり、干ばつが起きやすい事。海に接していては波や塩水のために堤防が傷みやすいことが指摘された。そこで、児島湾を締め切って、その内側を淡水化することにした。こうして1953年から4年間にわたって工事が行われ、できた堤防は道路としても活用された。わが国初の締め切り堤防である。
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