55.トヨタ、その限りない可能性への挑戦(1)
第55話
名古屋駅の北側、栄生に「産業技術記念館」がある。
トヨタグループ13社が共同して建てた博物館だ。
この博物館の大きな特徴は、ただ古いものを展示するだけではなく、
それらを実際に動かして見せることだ。明治時代に作られた豊田織機が
いまなお元気に動いている。
トヨタの創業者、豊田佐吉は明治40年、この地で「豊田商会」をおこした。
もともとトヨタはこの地で盛んな繊維産業として、名を上げた。
トヨタというと佐吉のことばかり語られるが、実は佐吉の長男、喜一郎氏の方がその功績が大きい。
喜一郎氏も東大卒でありながら、波乱万丈の生涯をおくった。
喜一郎氏は、名古屋の東の挙母の土地を買収して、自動車工場を作った。
豊田自動織機自動車部、後のトヨタ自動車である。昭和12年のことだった。
当時、この地は荒地で畑を作るのがやっとだった。喜一郎氏は日本に自動車道路ができるなら、必ずこの地を通ると考えていた。
1968年、戦前喜一郎氏が予言した自動車道路は東名高速道路となって実現した。
この頃の自動車といえば、個人で持つのも考えられない時代だった。
喜一郎氏はこれからの日本は自動車の時代になると考え、周りの反対を押し切り、トヨタグループの破産さえ覚悟の上で自動車生産に踏み切った。
今でこそトヨタの車は日本の工業製品の代名詞だが、戦前のトヨタは名古屋の小さな財閥に過ぎず、自動車は毎日故障するのが日課にさえなっていたという。
しかし、それらを積み重ねて次第に名声を獲得し、ついには挙母の地名も
「豊田市」と変えてしまった。愛知県最大の工業都市である。
やがて、喜一郎氏は昭和16年にトヨタ自動車の社長となったが、このころにはすでに喜一郎氏の考えが通用する時代ではなかった。
喜一郎氏は「大衆の乗用車」を考えていた。が、そんな考えが通る世の中では
なかった。彼は戦争が終わる日を指折り数えて待っていたという。
だが、戦争が終わっても時代はトヨタに自動車つくりを許さなかった。
GHQの財閥解体、厳しい生産制限、インフレに労働争議と問題は立て続けに起こった。そのため、昭和25年喜一郎氏は社長を辞任した。
が、皮肉なことにこの直後朝鮮戦争が起こり、日本経済は回復に向かった。
2年後、立ち直ったトヨタに再び社長として復帰する直前、喜一郎氏は
脳梗塞で倒れ、57歳の生涯を終えた。
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