50.本厚木一番街通り

第50話

小田急が開通したときの本厚木駅は、南口にのみ駅舎が有った。

このとき、すでに国鉄に買収された相模線に厚木駅があったが、ここは海老名市内となっている。開通当初、この地が将来厚木市内として合併されることをもくろんで厚木の名を駅名とした。そのため、厚木市中心部は本厚木の名を名乗るしかなかった。

しかも、当時の市街地は現在の北口側にあった。

米問屋の中野氏はこの状況を憂い、自ら私財をなげうって道を開いた。

人々はこの道を「中野通り」と呼んでその功をたたえたという。

これが現在の本厚木一番街通りだ。

戦前、相鉄は相模川の砂利を運ぶ貨物鉄道だった。

そのため、現在は海老名止まりとなっている相鉄は、戦時中は厚木駅までレールが延びていた。

海老名の名は、かつてこのあたりが遠浅の海岸で、えびが踊るほど取れたことに由来している、かつてこの地には相模国国府があった。

古代、東海道は各国の国府を経由していた。

小田急の沿線は富士山の火山灰でできた「関東ローム層」と呼ばれる赤土が多く、稲作には適さなかった。鶴川のように努力した例はあるが、多くは畑作を選んだ。

代表的なものは世田谷や川崎の近郊野菜、高座渋谷いも、相模原の桑畑、

伊勢原の大豆があるが、秦野のタバコは一大山地だった。

日本初のタバコは明治17年にシリーズ化された「天狗タバコ」である。

経営者が国粋主義者だったので、吸い口つき、国産を売り物にした。

これに対抗したのが「村井のサンライス」である。こちらは経営者が西洋かぶれで輸入葉、両切りで対抗した。

しかし、明治39年のタバコ専売法の成立でみな統合された、

秦野のタバコは今なお続く名門ブランド「ゴールデンバット」や「朝日」

などに使われた。

が、次第に秦野の作物はピーナツ、トマトなどに移っていき、現在に至る。

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