47.思い出の万世橋

第47話

井の頭を水源とする神田上水は早稲田、御茶ノ水をとおり、やがてレンガの壁が歴史を語る橋のたもとにたどり着く。その橋は、人々が平和な世の中がいつまでも続くようにと「万世橋」と名づけたという。

かつて、この地には中央線最初の駅「万世橋駅」があった。ところが秋葉原から歩いていける距離だったことから、大正14年廃止された。万世橋から御茶ノ水を望むと左側に見えるレンガの壁は、その跡である。「万世橋駅」の跡はしばらくほっておかれたあと、昭和8年に「交通博物館」として現在に至る。私は先日20年ぶりに交通博物館を訪れたが、内部は20年前とまったく変わっていなかった。このあたりは戦前からにぎやかだったらしく、小田急も最初の計画ではこの地を通る予定だった。やがて戦後、世界に有名な電気街ができるのだが、

最近も変わった。私がまだ学生の頃、当時のコミケの会場だった晴海見本市会場の門前のビルが、日本無線協会の本部で、無線の国家試験はそこで行われた。10年前、私はそこで試験に合格して無線免許を所得した。まだ携帯どころか、自動車電話も珍しかった時代、

無線免許の力は大きかった。私のとった免許は小さいが、その気になれば

アメリカとでも通信できる資格だった。今となっては資格の要らない携帯やインターネットに押されて無線は元気がないが、私は無線の復権を信じている。いざというとき頼りになるのは電波なのだから。なぜなら、電波は国家権力によって封じられることがないからだ。

いかなる権力も電波の道筋をとめることはできない。

言論の自由は自由の有力なる防塞のひとつであって、いかなる形でもこれを制限する権力は専制政府といわなければならない。そして、専制政府は過去の歴史上は必ず最後には民衆の力で倒れているのだ。

いつの時代も、民衆を味方につけずして勝利した例はない。

さて、この地に私の20年来のなじみのレストランがある。

その名は「万世」私がここよりうまいレストランはおそらく日本にあるまい

そういえるほどの店だ。

私はいつも「万世」の4階から下を眺めて食事するのを楽しみにしている。

万世橋から上流を見た神田川の眺めは20年前と変わっていない。

私がここまで生きてられるとは思わなかったが、今度いつこの景色を見られるかと思うと、涙があふれて止まらなかった。

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