45.有楽町で逢いましょう(後)

第45話

山手線は戦後、進駐軍が「ヤマテセン」と呼んだため、長らくその名が使われてきたが、昭和46年、正式に「やまのてせん」となった。

私が小学校のときからまったく変わってない駅は山手線にはひとつしかない。有楽町だ。織田信長の弟で家康の重臣となった茶人、織田有楽斎が屋敷を与えられて住んだのが「有楽町」の名の起こりとなっている。現在、彼の残した茶室「如庵」が国宝として愛知県犬山市に保存されている。一切の飾りを排したシンプル且つ贅沢な茶室だ。

私は何度となく有楽町に助けられた。学生時代、夜行列車で東京に来たとき、

コンビニが都心になかった時代、有楽町には朝早くから蕎麦屋が開いていた。

東京駅のコインロッカーが閉まっていたとき、有楽町のロッカーは空いていた。

無線の試験やコミケへ行くとき、名古屋から長旅をしてきた私を温かく迎え、

見送ってくれたのはいつも有楽町だった。コミケに行くときは東京駅を通るより有楽町を通るほうが混雑がなく、便利だった。だから私は毎回コミケのときは必ず有楽町を経由して会場に向かった。

私は有楽町にコミケのための靖国神社ができないかと思っている。

コミケというのは苛酷な環境だ。私ですら死を覚悟してくることもある。

そこで有楽町にコミケのための靖国神社を作り、かつての参加者で物故者となった人たちを祭る。この人たちのおかげでコミケがあるのだと心に刻み付ける。

そうすれば無礼な参加者はいなくなるだろう。

あと100年もすれば、みなもと太郎先生も深川美流さんも私もそこへまつられよう。私はそこで下界の様子を見ながらみんなと思い出話をするのを

今から楽しみにしている。「有楽町で逢いましょう」はコミケ参加者の

合言葉になるのだ。

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