42.スガモ・プリズン(前)
第42話
池袋サンシャインシティ、今でこそ毎日10万人が訪れる高層ビルだ。
しかし、その一角に「恒久平和を願って」との一文が刻まれた石碑がある。
ここは、かつて刑務所だった場所だ。
終戦後、米軍は戦犯を収容する場所として、「スガモ・プリズン」後の巣鴨刑務所、現在の東京拘置所を選んだ。その跡がサンシャインだ。
そして昭和23年12月23日。東条英機ら7名がこの場所で死刑に処せられた。
東条英機は、裁判が理不尽なものとわかっていながら敢て戦い、天皇の代わりに自分が罪をかぶり汚名を着たまま死んでいった。彼にしてみれば、いつかはみんなわかってくれる、自分の汚名も晴れるときも来ようと信じて死んでいったのかもしれない。
そんな刑務所跡も昭和50年に現在の小菅に移り、4年後に立派なビルが建ったのだ。最近はおしゃれな町になったものだが、昔は特に知人がいなければ
寄り付かない町だった。刑務所のそばに好き好んで住む人もいない。
最近は東北方面にまで列車が出ているそうだが、長らく東北行きの出発点は上野だった。これは、鉄道は市内に入れなかったので、ターミナル駅は
当時の町のはずれにできた。東京で言えば、新橋、上野、新宿などがそうだ。
こうした例はロンドンにもあり、ウオータールー駅、チュアリングクロス駅
などロンドンの主要駅を線でつなぐと、ロンドン塔を東にした楕円形の
図形ができる。それこそがロンドンの中心街「シティ」である。
1066年、ウイリアム一世がイギリスを征服してロンドンを首都として以来、
王権から独立し続けた経済特区だ。
赤羽で池袋方面に別れを告げると、並行する京浜東北線を外れて尾久という駅に着く。かつて列車で新鮮な食材が運ばれてきた時代、この駅が貨物ターミナルだった。
大正14年、わが国初の生鮮食品輸送列車が下関を出発した。
平成2年まで65年間にわたって働き続けた東京行き鮮魚コンテナ列車
「とびうお号」である。
昭和30年代、こうした列車は各地を走った。
有名なのは「近鉄鮮魚列車」で、朝早く鳥羽を出発した近鉄の貨物列車は
毎朝8時55分、大阪の台所、鶴橋に到着するや否や、ひときわ市場がにぎやかになる。こうした光景は昭和60年まで続いた。
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