41.夢のプラネタリウム(後)
第41話
2001年3月11日、五島プラネタリウムはその44年の歴史に幕を閉じた。
昭和32年、東急百貨店の屋上に「五島プラネタリウム」はオープンした。
当時、東京でプラネタリウムといえばここだけだった。
下北沢で井の頭線に乗り換えて渋谷へ行く。小田急から新宿で国鉄に乗り換える方法もあったが、渋谷へ行くなら井の頭線のほうがはるかに安くて簡単だった。当時の井の頭線渋谷駅は、ホームこそ簡単なつくりだったが、
小田急の新宿駅よりはるかに広くて、天井が高く、光が差し込んでまぶしかったのを覚えている。
プラネタリウムの入り口には、さそりが置いてあった。周りの通路には天文写真家の藤井さんの写真が所狭しと置いてあった。
歴史が古く、専門知識のある人もいたため、何か天文で事件でもあると、
必ず五島プラネタリウムの職員が引っ張り出された。特にハレー彗星の
観測では大きな功績を残した。日食、月食も五島プラネタリウムに聞けば
詳しく教えてくれた。ただ見せるだけでなく、いろんなことを教えてくれる。
だから、五島プラネタリウムは社会科見学に使われることも多かった。
そして、緑色の矢印を使って解説するのも大きな特色のひとつだった。
子供たちは退屈だと寝てしまうが、ここでは子供たちの笑い声で先生から注意を食らうことが多かった。それほど語り口が面白かった。
私も子供ができたら連れて行きたかったのだが、なくなるならもう一度見ておきたかった。
あれほど子供たちに夢を残してくれたところはどんなに赤字でも東京都が補助金出してでも残すべきだった。なぜなら、次代を担う子供たちの教育を赤字だといって放棄するような組織に明日があるだろうか?
また、「リストラ」と称して社員の首を切るような企業が多いが、そんな会社に
果たして発展があるだろうか?明日自分の首が飛ぶかもという時に会社のために働く人がいるだろうか?そんなはずはない。むしろ首切りでかえって会社がおかしくなった例がおおいのだ。トヨタの二代目、豊田喜一郎氏は終戦後ほかの自動車会社が次々とリストラしているとき、こういったという。「トヨタでは閉鎖する工場が出ても、従業員は全員配置転換で吸収し、
絶対に首切りをすることはない。これは私の方針である。」
以来、現在までトヨタはリストラを行っていない。
現会長の奥田氏はこういう。
「人が余っているというなら、あまった人を使って新事業を行ってこそ、経営者というものです。」
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