39.世田谷区の成立

第39話

大正時代、現在の23区より一回り小さい「東京市」がおかれており、

その下には15区があった。

ところが、関東大震災で焼け出された人たちは次々と世田谷にやってきた。

学校では生徒が増えすぎて2部授業になったほどだった。

加えて、昭和2年、いよいよ小田急線が開通する。さらに昭和8年、東京を回る外環鉄道の計画が持ち上がる。結局この計画は幻に終わったが、このとき小田急が乗換駅として建設したのが現在の梅が丘駅である。

さて、このように都市基盤整備が進むといつまでも世田谷は田舎ではすまなくなってきた。世田谷は東京市への編入を申し出た。

こうして昭和10年、「東京市世田谷区」が誕生した。

なお、喜多見と砧地区は当初世田谷区には含まれておらず、昭和12年に両地区が編入されたことにより、現在の世田谷区が完成した。

昭和18年、東京府と東京市が発展解消する形で「東京都」が誕生する。

戦後昭和23年再編成され、世田谷区は東京で最後の区、23番目の区となり、

ここに「東京23特別区」が誕生した。

さて、世田谷のはずれ、喜多見は最後の江戸である。

1180年、平氏一族の江戸太郎重長が住んでいた土地が江戸となったのだが

江戸氏は時代の流れに押し流され、江戸時代、幕府につかえたときは

「喜多見氏」を名乗るようになる。喜多見氏は大名になるのだが、三代将軍家光の時代に親戚の酒の上での乱暴が原因で改易になるのである。

これはいわゆるお家断絶である。

しかし、江戸氏、喜多見氏が江戸の発展に尽くした事実は消えることがない。

その証として今なお喜多見の地名が残っている。

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