36.がんばれ、世田谷線!(前)

第36話

明治末期、渋谷から二子玉川まで電車を通そうという話が持ち上がった。

普通こういう場合反対運動があるのだが、ここではなんと子供たちが反対運動の先頭に立った。理由は子供たちが遊んでいる道路を電車にとられたくないからだった。今では考えられないようだが、15年前まで子供たちは空き地や道路で遊んでいたものだ。私など体が弱くてそれすら満足にできなかったから悔しい思いをしたものだ。

鉄道会社は驚いたことに子供たちの声を聞くことにした。レールを地中に生めて道路の邪魔にならないようにしたのだ。

戦前は今のマイラインのように同じ家でも一階と二階は別々の電力会社から電気を買っている家が珍しくなかった。それは、現在の電車に沿って各鉄道会社が配電をしていたからだ、都電や京浜急行や東急は戦前は旅客運送事業より発電による収入が多かったほどだ。小田急は東京府や東京市に電力を大口供給している「鬼怒川電気株式会社」が母体となって創立された。だから小田急は戦前どんなに旅客が少なくても倒産の心配はなかった。

今のように電力会社が統合されたのは昭和18年のことだ。このとき各地の私鉄から発電事業は国に統合された。だが、この国による電力事業に反対して

電力会社の社長を辞任した男がいた。この男こそ、茶人として知られ、戦後、

中部電力社長として「電力の鬼」とまでうたわれた松永安左エ門その人である。

彼は、特定の産業を国が保護したり独占したりするのは必ず将来よくないことになると考えていた。事実、戦後の財閥解体から銀行業界の護送船団方式の崩壊まで彼の予言どおりになった。

そして、この電車は後に「玉電」と呼ばれ、戦後は東急玉川線として昭和40年に至るまで走り続けた。現在、渋谷の東横線の駅の二階にあるバスターミナルはかつては「玉電」の終着駅だった場所である。

東急は「玉電」を廃止してバスにしても、いつかは復活させると住民に約束していた。そして昭和54年、地下鉄半蔵門線開通と同時に「玉電」は地下鉄として復活した。これが現在の東急新玉川線である。

そして、この「玉電」に支線の計画が持ち上がる。これが現在の世田谷線である。今では世田谷線は乗る時運賃箱に140円入れるそうだが、

私が子供の頃は山下駅のホームにある運賃箱に100円を入れるだけだった。

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