23.バブルの門と西への憧れ(前)

第23話

現在の町田駅前の姿が形作られたのは1990年ごろのことだ。

このころ、丸井が町田へ進出し、駅前歩道橋やアーチ型の門、国際版画美術館などが完成した。東急ハンズの前のアーチもそうだ。

私が生まれた1970年に現在の町田市役所本庁舎が完成し、初代青山藤吉郎市長に代わって二代目大下勝正市長が20年間にわたって革新市政を進め続けた。大下市長はこの頃全国で沸き起こった非自民党の「革新行政ブーム」に乗って誕生した。

東京都で美濃部亮吉都知事が活躍した時代だ、その後10年もたたないうちに各地で保守勢力が復活してきたが、町田市では1994年に三代目寺田和雄市長が与野党相乗りになるまで自民党は野党だった。社会党と共産党で市議会の過半数を占めて与党になっていた。

昭和と平成に渡って革新市政が続いてきたのは東京では町田だけだった。

1980年代、全国、東京がほぼ自民党の天下で民衆とかけ離れた政治を行っていた時代、町田だけが革新派の天下だった。町田だけが新しい試み、民衆の声を聞いた挑戦的な政治、政策を行えたのである。行う責務があった。

そして1990年代町田が、社会党と共産主義がその戦う使命を終えると町田でやってきた政策、リサイクル、ごみ問題は急速に全国に波及していった。

外国人指紋押捺は、東京で町田が最初に廃止した。国や都の命令さえ町田は無視した。

1994年になって、外国人指紋押捺は廃止された。町田の政策が勝ったのだ!

いわれのない外国人差別が終わりを告げた。

だが、町田もバブルに乗ってハコモノを作り始めた。

このため、二代目大下勝正市長の命運も尽きてしまった。

それは同時に社会主義政権の終わりも引き起こした。

昔から、町田市民には西への強い憧れがあった。もし、東海地震が起こって町田が崩壊したら、西のほうへ逃げようとしていた人は多かった。私は三宮のおじの家に逃げることを考えていたほどだ。もっとも現実は三宮が東京をすっ飛ばして沈没したのだが。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る