21.プラザ・ビーミーと阪急電鉄(2)

第21話

今では鉄道沿線の住宅地を系列の不動産会社が宅地として分譲するということはよくある話だが、小林一三は明治末期に大阪池田市内でそれをやっていた。

しかも、この「池田室町住宅地」は10年間の住宅ローンつきだった。

この頃は東京は人口の8割以上が借家暮らしで、土地つき一戸建てなど考えもなかった。

小林一三が三越の少年音楽隊に対抗して作ったのが「宝塚歌劇」である。

さらに、西宮球場と阪急ブレーブス(現オリックス)も創設し、往復割引の

「阪急ハイキング切符」も発売した。いちはやく神戸三宮に乗り入れ、

さらに切符自動販売機の導入、直営食堂の経営などを行った。

人々の需要を待つより、ひたすら沿線の明日のことを考え、沿線に数多くの施設を作り、それらを名所にして鉄道の需要を広げていったのである。ここまで積極的に需要を喚起して乗客を増やしていったのは阪急電鉄しかない。

その阪急電鉄と小林一三の夢の集大成が「梅田阪急ターミナルデパート」だ.

小林一三はデパートを単に物を安く売るだけの場所とはしなかった。ここに来ればだれでも自分を演出できる場所にしたかった。

現在も大阪梅田の阪急百貨店はその当時の面影がそのまま残っている。入り口は豪華なシャンデリア、アナログ式の階数表示のエレベーターに乗って8階に行くと昭和4年から続く大食堂はそのまま残っている。

ここの名物はカレーライスだ。小林一三はカレーには特にこだわり、大食堂に日本初の「契約農家栽培」「調理完全分業」「エプロンの採用」「食券制度導入」を行った。この2年前、新宿中村屋がインドカレーを発売していたが、当時は高級料理で一杯50銭もした。このころは50銭あれば親子どんぶりを食べて、映画を見て土産にお菓子が買えたというほどだから、カレーは高級料理だったのである。

小林一三はそれを20銭で売り出し、高級料理のカレーを安く、庶民の味にしようとしたのである。このアイデアはあたり、大食堂は人であふれた。

大正12年にS&Bが国産初のカレー粉を発売していたが

およそ家庭の味には遠いものだった。後に阪急の大食堂で食べたカレーの味を忘れられなかった人々が何とかカレー家庭の味にしようと大阪で立ち上がった。

小林一三の死後、彼らはその夢を引き継ぎ、ついに昭和35年、画期的なカレーが発売される、カレー粉に植物油脂を練りこんだわが国初の家庭用カレールー「グリコワンタッチカレー」である。昭和43年にはやはりわが国初のレトルトカレー「ボンカレー」が発売され、カレーは家庭料理となったのである。

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