20.プラザ・ビーミーと阪急電鉄(1)

第20話

1989年、町田大丸は大阪心斎橋の本社から独立し、「株式会社町田大丸」

通称「プラザ・ビーミー」として生まれ変わった。

もともと大丸は東の越後屋、西の大丸といわれたほどの大阪の呉服商だった。

今でも大阪心斎橋にある地下鉄御堂筋線の階段には「いらっしゃいませ、心斎橋です、大丸です」との文字が階段の一段一段に刻まれている。

しかし、東京では振るわず、「ピーコックストア」を別とすれば大丸は町田のほかは東京駅八重洲口にしかなかった。

名称変更を機に大丸は店内を大幅に変更した。それまでの直営売り場をテナント方式に変えたのだ。しかし、売るものや体質が変わったわけではなかった。私としては「町田大丸」のほうが通りがよかった。だが、このことが後に町田大丸の崩壊を告げるとは誰も予想しなかっただろう。

この頃には町田駅前にデパートが乱立しており、小田急、大丸、東急などの各店や商店街との競争が激しくなって、単独では戦いが難しくなった。

ビーミーの失敗は今思えば大食堂の廃止が間違いの出発点だった。

不思議とダイエーやジャスコなど郊外のスーパーの発達やファミレスの台頭はデパートが大食堂を不採算で閉鎖した時代と重なる。これは、デパートで食事した家族連れが車を持ち、ファミレスで大人も子供も一緒に食事をするようになっていった。

その結果、デパートは大食堂の維持費による赤字よりもはるかに大きい売り上げ減少と信用低下を招いた。

商人だった父は私にこう言っていた。

「自分の儲けや都合ばかりを考えてお客さんのことを考えないようではいかん」

ここでひとつの例を紹介しよう、阪急電鉄とその創業者、小林一三である。

住宅ローン、宝塚歌劇、高校野球、サファリパーク、打ちっぱなしゴルフ場、

ターミナルデパート、すべて小林一三が私たちに残してくれた夢である。

小林一三は大衆のために、大衆の夢を形にする事業に力を注いだ。

だれでも夢を見、誰でも楽しめ、誰でも演じる事ができる。

小林一三と阪急電鉄はそれを次々と形にしていった。

阪急電鉄はただ単にお客さんを乗せて運べばいいとは考えていなかった。

常に新しい需要を掘り起こしていった。

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