17.鶴川の民主主義(前)
第17話
私の出身地、鶴川は町田とは別枠で一章として取り上げたかった。
もともと町田は鶴川で農業と山林資源があるほかはこれといった天然資源はなかった。そのため、町田は街道や物流を整備して、商業都市として発展する以外に道はなかった。鶴川も、また町田の取り組みを忘れていなかった。
農業もまた合理化の道をひた走っていた。米の生産量は八王子にかなわなかったが、1アールあたりの米の生産量は鶴川が東京一だった。昭和23年には「米つくり日本一」の表彰まで受けている。
鶴川最大の名産物は柿だった、700年前、王禅寺の住職が山中で見つけて枝を折り、寺に持ち帰ったという「王禅寺柿」は現在でも名物である。
鶴川の隣町に「柿生」という地名があるが、これは柿の名産地であることからつけられた地名だ。鶴川は柿の出荷では組織力で対抗し、柿生をしのぐこともあった。
私が中学のとき、学校で柿が枝ごと配られたこともあったくらいだ。
新しい取り組みを忘れぬところは、早くから新しい考えや思想が普及していく。
町田も鶴川もそうだった。
鶴川は自由民権の聖地だった。現在野津田の袋橋というところに「自由民権資料館」がある。ここには自由民権運動に活躍した名士の資料がおかれている。
これらの資料は多くは名主、小島家に保管されていたものだ。
これとは別に、幕末の志士たちの遺品が現在小島家に保管されていて、予約をすれば見ることができる。
近藤勇の胴着にはドクロの印がついていたが、これは彼の流派「天然理心流」の印だ。このときの当主、20代目小島為政はなかなかの人物だったらしい。
彼が作った「孝行道」というすごろくは、東海道53次をすごろくに見立て、各宿場に孝行や道徳の標語を入れてある。明治初年のすごろくだが、こうしたすごろくは大正時代に雑誌で流行し、現在でも各地の民俗資料館などで見ることができる。
明治も10年代になると、鶴川は自由民権運動の中心地となっていく。
人にはみな生まれながらにして基本的人権を有す、この考え方は各地に広まった。
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