10.思い出の新原町田駅

第10話

こうして町田市はできたが、新原町田という駅はそのままだった。

私が生まれてまもなく、町田大丸ができた。

そのころの町田大丸は専門店がテナントに入ることはなく、9階には大丸直営の大食堂があった。入り口でレジに食べたいものを言って食券を買う方式であったが、頼めば何でも出てきた。

大食堂は町田小田急ができた後に程なくして消えたが、子供たちに体験させてあげたいものだ。

当時の大丸の大食堂で口にしたのは、500円のお子様ランチと、300円のソーダ水だった。鶴川―町田間の電車の運賃が80円のころの話である。

大体、親が昼前に私を連れて銀行へ行ってから大丸へ行って、大食堂で食事して、買い物をして帰るのがお決まりのパターンだった。

現在町田駅の東側にある大和銀行町田支店は、1979年までは富士銀行町田支店だった。長らく空き家でほっとかれた後に大和銀行が入ってきたのだ。

富士銀行だった時代、私はよくここへ来た。

1979年以降、私は小田急で食事することがおおくなったが、高校生のころは両親の指示で一人でここで食事を済ますことも少なくなかった。

現在の小田急の食堂街はその当時の面影をまったくとどめていない。

当時とは店どころか、通路や配置も変わってしまったからだ。

最後に残ったのは、東口の地下にあった「スパイス」というカレー屋だった。

食券方式のカレー屋だったが、今風の紙券ではなく、プラスチックの板だった。

色別で何のメニューかわかるようなものだった。

ここも21世紀を目前にして消えてしまい、現在はブティックとなっている。

ここのそばを抜けると、暗い通路がある。1973年に開通した東口地下連絡通路だ。私の知っている限りで、この通路が最も古い時代の町田の面影を

そのままとどめている空間だ。この通路は現在、雑居ビルになっているが、

当時は「緑屋」というデパートだったビルの地下へと続く。

当時は親がカードを出して買い物するのを私は眺めていたものだ。この頃は一般庶民にカードは まだ普及しておらず、20年したら今度は自分でカードを持つ世の中になるとは考えもしなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る