6.鉄道に託した未来の夢(前)

第6話

明治末期、「横浜鉄道株式会社」が横浜から町田経由で八王子まで鉄道を敷設した。現在の横浜線である。ところが赤字経営が続き、開業まもなく国に営業を委託し、大正時代に国鉄に買収された。

このとき、利光鶴松氏が別の鉄道会社を設立した。「東京高速鉄道会社」

ルートは池袋から御茶ノ水を経て、銀座、赤坂、四谷を経て新宿へ行く地下鉄である。

大正時代にはこの夢が実現することはなかったが、営団地下鉄がその夢を引き継ぎ、昭和36年、「丸の内線」として実現した。当初、終点は新宿だったが、昭和46年に荻窪、49年に方南町支線が開通した。

さて、その夢の延長線として、新宿から小田原へ伸びる鉄道を計画した。

「小田原急行電鉄株式会社」後の小田急電鉄である。

当初の計画では路線は現在の長津田を通る予定であったが、町田の地主たちは積極的に土地を提供し、町田経由で鉄道が建設された、ただ、農民との軋轢もあったらしく線路は曲がりくねり、町田駅の北側に「新原町田駅」ができた。

こうして昭和2年、小田急線が開通した。

大正時代、教育者小原国芳翁は東京牛込に私立学校を作った。

その後、学校は成城に移り、「成城学園」と呼ばれるようになる。

ところが、教育方針をめぐって上流父兄と国芳翁が対立し、

学園紛争に発展する。このとき下流父兄たちが独立したのが現在の「和光学園」である。

小原国芳翁は本町田の土地99ヘクタールを買収し、半分を住宅地として整備売却し、残りの土地を学園とした。これが「玉川学園」である。

その後、国芳翁は終生を学園と主にすごした。

国芳翁は小田急と覚書を交わし、駅の収入が一定額以下の場合は学園がその差額を負担するという条件で昭和4年玉川学園前駅を作らせた。

同じ年、小田急の江ノ島線も開通しているが、開通当初相模大野駅はなく、列車はすべて町田から発着していた。現在でも江ノ島方面からの列車に町田行きが多いのはこの名残である。

相模大野駅が開業したのはそれから10年もたってからのことである。

このころ、日本は戦時色が濃くなり、相模原には次々と軍需工場が立ち並んでいた。貨物専門だった相鉄も、このころ旅客鉄道になった。

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