4.商業都市町田の発展
第4話
町田の特徴は何かというと、その発展しつつける商業にある。
町田は、東京屈指の商業都市である。私の父も、親族も商売人だった。
現在の町田の商業地の原型は江戸時代末期にあった。
もともと、八王子では蚕を飼って、糸をつむいで生糸にしていた。
この産業は、昭和30年代になっても続いた。現在でも古い農家には跡が残っている。
昭和30年の相模原市橋本は駅の周りは見渡すばかりの桑畑だった。桑畑は八王子から町田まで延々と続き、生糸が盛んに作られた。
江戸時代、生糸は高崎へ運ばれて絹織物となったが、横浜開港以降は逆に横浜へ運ばれた。
このころ、ヨーロッパではカイコの病気が大流行し、生糸が不足した。
ナイロンが発明されるのはそれから60年もたってからのことだ。
そのため、生糸や代金は現在の横浜線のルートを通る、すなわち、町田を通る。
そのため、町田では商業が発展した。この道は「絹の道」といわれ、
終戦まで生糸が往来した。
現在でも小田急町田駅東口広場に「絹の道」の石碑が置かれている。
明治になると、町田を含む多摩地域はすべて神奈川県管轄となり、
東京はわずかに現在の23区の範囲を収めるだけになった。
ところが明治20年、多摩川でコレラ患者の衣服を洗ったことが問題になった。
現在でも東京都の水源の2割は多摩川から取水している。江戸時代の玉川用水は明治には現在の新宿西口ビル街のところに有った「淀橋浄水場」で処理して都内に配水していた。1965年この浄水場を砂で埋めて、浄水場は東村山へ移転し、現在の「新宿副都心ビル街」が建設されることになるのだが。
調査の結果、患者の衣服を洗ったのは事実だったが、その場所は水源とは関係がない場所だった。しかし水源の東京による自主管理が叫ばれることになり、
明治22年、多摩地区は東京府へ移管されることになる。
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