破たんへの道
第13話
創業者のウォレス夫妻が、1981年3月30日(デヴィット氏)と1984年5月8日(ライラ夫人)に亡くなったのが、日本支社にとっては運のつきであった。創業者が奇しくも私の誕生日にくたばるとは何とも皮肉なものだが。ウォレス夫妻は赤字でも支援を続けてきたが、新経営陣は赤字体質の経営を認めなかった。米国本社ではグルーン会長のもとで前経営陣を更迭して刷新を図ろうとした。
日本においては、1981年、先に述べた漱石復刻版事件で大儀見社長が退任し、T・D・ウエークフィールド社長が就任する。このころ、スペインからの撤退、フランスで150名の解雇、北欧子会社の統合を行っている。そして次の照準は日本であった。創立者デヴィット・ウオレス氏は生前こう言っていたという、「どんなに経営が不振でも、日本リーダーズダイジェスト社は必ず立ち直る。だから、援助を続行せよ」神格化した社主の意向に逆らうことは誰にもできなかったが、ここへきて情勢が一変した。
パレスサイドビルの登記の持ち分や地上権などの不動産は、破たん1年前(ウォレス夫妻の死去9ヶ月後)の1985年2月2日に毎日新聞社へ売却されている。塩谷氏によれば、これが日本支社閉鎖への布石であったことが悔やまれるという。当時、塩谷氏は米国本社の経営不振で資金が必要になったのだろうと考えていた。当時世界最大の雑誌がつぶれるはずがない、当時の社員がみな考えていた。しかし、当時の社長は1985年7月に辞任してしまった。間をおかずに日本支社の創業者である殖栗文夫も逝去した。
この間、もう一つの家主である毎日新聞社も動いていた。毎日新聞社は1977年に経営が悪化し、「新旧分離方式」で債務処理を行う旧社と新聞発行を引き継ぐ新社に分離し設備は新社が旧社から借り受けるという方式であった。この方式は過去いくつも例があるが、ほとんどの場合は債務を引き受けた旧社が破産などで消滅している。また新社が他の企業に吸収合併されたり、丸井今井のように新社までが経営破たんし三越に吸収合併された例もある。この点において毎日新聞は稀有な例であった。1985年に債務処理が一段落したため、旧社が新社を吸収合併して現在に至っている。日本の大企業で債務超過に陥りながら旧社が存続している例は他にない。
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