パレスサイドビルの完成と没落
第10話
こうして1966年10月1日にパレスサイドビルが完成した。
先ごろ、パレスサイドビルではビルの着工から完成までをつづった展示会をやっていたのだが、私も初日に見に行った。
展示は10枚ほどのパネルと記帳所の他はモニターが置かれてあるだけだが、このモニターには20分ほどの「パレスサイドビル物語」(1966年毎日映画社製作)が流されていた。パレスサイドビルの建設計画合意(1963年3月)から始まり、リーダーズダイジェスト東京支社ビル(1951年、リーダーズダイジェストが建設した)の取り壊し(1963年)の映像に始まり、さらに同年7月の起工式には、当時の池田隼人首相の映像も出てくる。さらに細かな着工の模様も映され、1966年3月の地下鉄東西線の開通を経て10月1日の竣工式となるのである。リーダーズダイジェストのウォレス夫妻(創業者)や、当時の佐藤首相や田中角栄なども登場している。最後にはリーダーズダイジェストのオフィスが登場するのだが、雑誌社にしてはあまりにもシンプルなものであった。机には電話すらなくオペレーターが淡々とタイプライターを打っているだけである。そんな有様であるから、この後の運命も悲惨なものであった。
1973年5月にウオレス夫妻がリーダーズダイジェスト本社を退任することになった。後任として会長兼編集長にホバート・ルイス氏、社長にウオルター・ハイツマン氏が就任した。創業主であったことから、直接の経営を信頼できる部下に任せたということも考えられる。1973年のオイルショックでは、リーダーズダイジェストも月刊誌である本誌を出版するべく、カナダから紙を緊急輸入するなど対応に追われた。
そんな中でも、1974年6月に、リーダーズダイジェストは発行部数で文芸春秋を抜いた。発行部数は61万部。トップは家の光で当時118万部であった。
この頃より会社は大きく変貌を遂げることになる。まず社長にウオルター・スタンレー・ホルト氏が本社に戻りトム・コクレン美術部長が退社した。大儀見氏が社長に就任。3事業部制を敷いた。音楽、美術、出版の3事業部であり、それぞれ中澤音楽部長、前田美術部長、菊谷出版部長が就任した。1976年、会社より機構改革案が提示された。100名の希望退職募集とセットの提案であった。組合などが反対したが結局100名以上がこれに応じた。翌年、大儀見社長を中心とする新体制が発足した。しかしこれも3年ともたないのである。
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