第15話

 朝早くに、食堂で見た問診表の患者がやって来た。

 二階の共同洗面所で歯を磨いていた僕は、白いワーゲンから女性が一人、松葉杖を片手に降りて来るのを窓越しに見つけた。急いで洗顔を済ませて、一階へ降りる。

 新患を迎えた一階は、慌ただしかった。

「浅葱、はよう来い!」

 族長の呼び声に、浅葱の「はーい!」という返事が聞こえる。真知さんも、パタパタと忙しそうに廊下を走っている。 

 そりゃそうか。大事な金づる……じゃなかった。患者さんなんだから。

 真識最大の治療所である大屋敷を利用する患者なんて、一月に一人か二人。大抵の患者は、村の外で整体院を構えている真識人のところに流れる。

 族長は、この大屋敷を建てた時に十五の個室を作らせた。ハンターの脅威に怯えなくていい日が来た時の為にだ。その時には沢山の患者がこの村でゆっくり静養し、治療に専念できるように。

 その個室の一つは今、僕が使わせてもらっている。残りは、今日のようにたまに来る患者さんや、長期休暇を利用して療術を学びに来る同胞が宿泊に使う程度。つまり、いつもガラガラなんだ。

 手入れはきちんとされているし、古い建物が好きな人にはたまらない場所なんだろうけど。こういうのを、宝の持ち腐れ、っていうんだろう。

 僕も患者さんを一目見たくて玄関に向かおうとしたけれど、運の悪い事に食堂から出てきた浅葱とばっちり鉢合わせしてしまった。

 白いシャツと、破れていないグレーのパンツ姿。いつもは家着みたいな服ばっかり着てる奴だけれど、流石に今日はきちっとしている。

 浅葱は、僕と視線が合うなり眉間に皺をよせた。

「さっさと飯食って学校行け!」

 シッシと害獣を追い払うが如く、グローブみたいな両手を僕に向かって前後させる。

 どうあっても診せない気か、コイツ。

 僕はムッとした。しかし、廊下を走ってゆく背中越しに発せられた「弁当忘れんじゃねえぞ!」という言葉に、目を瞬く。

 え。浅葱が弁当作ったって? マジで?

 配膳台を見ると、藍色の巾着に入れられた弁当箱が置かれていた。

 信じられない。まだ仲直りしていないのに、弁当を作ってくれるなんて。しかも、テーブルの上には僕の分と思われるピザトーストとカフェ・オ・レまで。

「い、いただき、ます」

 席に座り、もしやこの山盛りチーズの下には大量のタバスコが隠れていらっしゃるんじゃないだろうか、なんて警戒しながら、一口かじった。

 タバスコはいらっしゃらなかった。代わりに、浅葱特製のトマトソースがたっぷり塗られているのが分った。多分、先週に煮込んでいたやつだ。村でできるトマトは風味が濃いし、浅葱は余計な調味料を入れないから、市販のものとの識別は簡単にできる。浅葱の料理はどれもこれも、あのゴリラ男が作ったとは思えない、素直で素朴な味がするから。

 悔しいけど、美味いってことだ。

 今年のトマトは、例年に比べて少し甘味が強いみたい。ピザソースよりは、トマトケチャップに向いているかもしれない。これでチキンライスを作ったら、美味しいだろう。

 今度このソースを分けてもらってオムライスを作ってみようかと考えながら、ピザトーストを完食した。四枚切り食パンの上に具材が見えないくらいチーズを盛っためちゃくちゃボリューミーなやつだったけど、男子高校生の胃袋には余裕だ。カフェ・オ・レは温くなっていたので、一気飲みした。

 ごちそうさまでした、とコップを置いたところで、廊下の方から人の気配が近付いてくる。

「部屋は一階の角部屋にしましたが、それでいいですか?」

「はい、大丈夫です」

 真知さんの元気な声と、それに少し間をおいて、どことなく疲れているような若い女性の返答が微かに聞こえた。

 二四歳。女性。愁訴の一つに疲労感があった。なるほど、問診表通りだな。多分、族長と浅葱も傍にいるはずだ。食堂から出てきた所で鉢合わせした体を装おう。挨拶がてら一瞬だけなら、全体像くらいはチェックできるかもしれない。

 僕は手早く皿とコップを厨房のシンクに入れると、弁当箱を掴んで食堂の扉に張り付き、タイミングを待った。

 足音が聞こえる。ドスドス重いのは、浅葱。最初に少し踵を擦る軽いやつは、真知さん。終始すり足なのは、族長。それから、明らかに片方を引きずっている左右非対称の足音。これが患者さんのやつだ。

 足音と話し声が、次第に大きくなってきた。

 よし、今だ。

 僕は限りなく自然に見えるよう意識して、食堂を出た。目線は正面をキープ。

 有難い事に、「あら愁一郎君」と真知さんが声をかけてくれた。気付かれないよう軽く拳を握り策戦成功を喜んでから、振り返る。

 四人は五メートルほど先にいた。シーツなどのリネンを腕に抱えた真知さん。その右隣に、右に松葉杖をついている若い女性。女性の後ろには浅葱。族長は浅葱の左横、真知さんの後ろにいるはずだ。小さ過ぎるあまり、細身の真知さんにすら隠されてしまっているけれど。

 さっそく、般若みたいに歪んだ浅葱の威嚇顔が目に飛び込んできた。見なかった事にしよう。

 真知さんのお陰で、堂々と患者さんと対面する事に成功した僕は、「おはようございます」と仕事用の笑顔を浮かべた。すると、またまた有難い事に、真知さんが僕を患者さんに紹介してくれた。僕には、『斎藤 恵理さいとう えりさん』という、患者さんの名前を教えてくれる。

 浅葱の般若顔の矛先が、僕から真知さんへと移ったけれど、それに気付いているのかいないのか、真知さんはにこにこしている。

「よろしくおねがいします。斎藤さん」

 儀礼的な挨拶の間に、僕は斎藤さんの全体をチェックした。

 胸にかかるくらいのロングヘアは艶が失われ、顔立ちは整っているが瞳に力がなく肌は乾燥気味。やはり強い疲労感が見て取れる。加えて、外では蝉が煩いくらいに鳴いているというのに、着ているのは長袖のブラウス。しかも左腕に、薄手のカーディガンまで持っている。ロングスカートの裾からのびる両足にも、靴下をしっかり着用している。そして、スリッパの先から見える左前足部には、明らかな腫脹。

 ややふっくらとした顎まわりや腕、足のライン。ぱっと見、身長は一六〇センチ程度。体重は六五キロくらいだろうか。何となく痩せ形を想像していたので、これは意外だった。

 斎藤さんが、「お世話になります」と僕に頭を下げてくれた。

「あ、こちらこそ」

 慌てて僕も、同じように礼を返す。

 頭を上げると、斎藤さんの真後ろにある、更に凶悪なった浅葱の般若顔と目が合った。

 はいはい、退散しますよ。退散すればいいんでしょうが。

「じゃあ、失礼します」と軽く会釈してその場を離れた僕は、二階への階段を駆け上がる。

 上がりきって立ちどまり、考えた。

 あの人、何か変だ。

 それに、なんだろう。あの人と対面してから、喉に違和感が出はじめた。

 試しに咳ばらいを一つしてみる。

 やっぱり。この違和感は、気道じゃない。こんなの、初めてだ。

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