第16話
学校に着いた頃には、喉の違和感は消えていた。けれど、ほんの数秒間だけ向き合った斎藤さんの全体像が頭から離れず、その日の午前中は上の空。授業なんて、何を聞いたか覚えていない。その証拠に、僕の机の上には一時間目から四時間目まで、ずっと英語の教科書だけが開かれてあった。それに気付いたのは、昼休みに入って弁当を机の上に出した時だ。 よく先生に怒られなかったもんだ。
授業そっちのけで部活に熱中している名取さんの気持ちが分った気がする。ほんの少しだけど。
「おや、谷原クン。おばさんの手作り弁当復活したんだね。よかったじゃん」
「なんだ愁一郎。教室で飯食うのかよ。屋上行こうぜ」
今日も当然のように僕と向かい合わせに座って弁当包みを置いた名取さんの後ろから、木村先輩が顔を出す。
なんで先輩がここに? 舎弟になった覚えはありませんよ。
「ここでいいです」
僕は短くお断りした。
「あなたはいいです」
便乗した名取さんが、先輩自体をお断りする。
先輩は、名取さんを見下ろしてすっと目を細くすると、名取さんの弁当包みをむんずと掴んだ。教室の隅の席に座っている男子生徒めがけて「ほらよ」と投げる。気の毒なことに、男子生徒は弁当をキャッチしたはいいものの、「え? え?」と掴んだ物の処遇に困ってしまう。
「なにすんのよ木村!」
名取さんが弁当を取り返そうと席を立った隙に、先輩が椅子を奪った。先輩が椅子取りゲームに勝ったのはどうでもいいけれど、先輩の手には肝心の弁当が無い。もう食べて来た、とか?
と、先輩が僕に、ニカッと笑いかけてきた。
「弁当半分くれよ、愁一郎。俺、キンケツなんだわ」
なるほど。パン買う金がなかったわけか。
僕は「いやです」と即答した。
昨日の放課後、先輩が「パチンコ行って来らあ」とヤンチャ仲間に手を振って帰って行ったのを目撃したからだ。
「ケチだなぁお前」
先輩は面白くなさそうに口をへの字に曲げると、さっと左右に視線をめぐらせた。にやりと笑い、隣にいた男子生徒の弁当箱にあった肉団子をつまんで食べる。その動きは、狙った獲物を攫うトンビか鷹のよう。
つまみ食いされた男子生徒は「あっ」と声を上げはしたものの、悪びれず「これも」と卵焼きを指し示してきた上級生の不良に、しぶしぶ弁当箱を差し出した。
学校のカースト制度は生徒自身が作り出している。それだけに残酷だ。
そうこうしているうちに、飛んで行った弁当箱を取り返した名取さんが帰って来た。先輩が自分の席に座っているのを見るなり、ちくしょう、って感じで肉まんを潰したみたいなしかめっ面になったけど、何も言わず別の椅子を持ってきて、僕の左隣に腰かける。
無駄な争いを避けたんだね。それでいいと思うよ。
とはいえ、メンタルが強靭な名取さんは、ささやかな反抗を忘れなかった。
「臭い足こっち向けないでよね。消化吸収が悪くなるっての」
脚を組んでふんぞり返っている先輩の、汚れた上履きをピシャリと叩く。
しかし当然、先輩も負けてはいない。
「痩せていいじゃねえか」
と、すかさず言い返した。
名取さんが大口を開けて絶句した事で、軍配は先輩に上がって争いは終了する。
確かに名取さんは、標準よりもぽっちゃりだ。多分、BMI (ボディマス指数)は二五をオーバーするかしないかくらいだろう。健康に問題がなければ、痩せてようが太ってようが、どっちでもいいと僕は思うけど。
そこで、はたと気がついた。
斎藤さんと名取さん。どちらもぽっちゃりだけど、印象がまるで違うんだ。
これは是が非でも確かめないといけない。
席を立った僕はまず、左隣に座っている名取さんの顔を左右から掴んで引き寄せた。邪魔だったので眼鏡も外させてもらい、斎藤さんとの相違点を一つ一つ確認していく。
透明感のある瞳。瑞々しく血色がいい頬と唇。ふっくらとしているけれど、崩れていない頬から顎にかけてのライン。
続いて、首から下に移った。たっぷりとした二の腕。少し脂肪が多めだけれど、筋肉の張りと肌のツヤはキープされている。爪は淡いピンク色で、つるりと滑らか。体幹は……斎藤さんのもよく分らなかったし、とばそう。最後に下肢だ。しっかりとした大腿。ふくらはぎに締まりは無いけれど、けして弛んでいるわけじゃない。弾力も適度だ。
ぽっちゃりボディを十分に観察し終えて結論を得た僕は、再びゆっくりと着席した。
そうだよ。これが健康的なぽっちゃりなんだよ。
「なんでもっと早く気付かなかったんだろう」
茫然と呟く。
食い太りじゃないんだよ、斎藤さんは。
四肢の、あの膨張した感じ。肌の血色が悪いのは予想通りだったけれど。
くそう。問診表から得た事前情報に惑わされてしまっていた!
「あ~!」
僕は叫び声を上げると、自分の未熟さと浅はかさを恥じて机に突っ伏した。
「しっかりしろ愁一郎! 家畜なんかに欲情すんな! 人間の可愛い女紹介してやるから!」
「かっ、家畜とはなんだ! ちょいと谷原クン。触らせてあげたんだから、今日は一緒に帰ってよね!」
なんか、正面がやけに煩い。木村先輩と名取さんだ。ああもう、二人ともどっか行ってくれないかな。
斎藤さんは浅葱の患者さんだ。でも診たい。もっとよく診たい。ものすごく診たい。五分だけ。最悪、視診だけでもいいから。
「あー。でも無理だぁ~!」
僕は手出し無用なんだ。ボスの族長がオッケーを出さない限り、患者さんには関われない。しかも僕は先日、中退騒ぎで叱られたばかりの身だ。自分も関わらせてくれと族長に頼んだところで、学業を優先させるよう言われるに決まっている。
どうしようもないジレンマに陥った僕は、突っ伏したまま頭をかきむしった。同級生の女子にセクハラしてしまった切腹ものの所業にも、僕の奇行に対し教室にいるクラスメイト全員がドン引きしている事態にも、全く気付かないままで。
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