第12話

 僕は幼い頃、特別かくれんぼが上手かった。

 別にコツを知っていたというわけではなく、ただ普通に、物影や茂みに隠れていただけだったんだ。それなのに、大人でさえ僕を見つけるのは至難の技だった。特に自然が多い公園や野山ではいつまでたっても見つけてもらえず、終いには無視されているのだと勘違いした僕は、泣いてしまう時さえあった。

「しゅういちろうくんは、草や木に好かれているから、草木がかくれんぼを手伝ってくれてるのね。きっと」

 泣きじゃくる僕にそう言って慰めてくれた保育園の先生は、一人や二人ではなかった。 先生がかくれんぼのエピソードを話すたびに、母さんは曖昧に笑っていた。

 母さんは真識出身者じゃない。父さんと出会うまでは、真識って聞いても「なにそれ。おいしいんですかー?」って感じだった人だ。非情にの~んびりした性格で、一種ボケているとも言える人種なんだけど、少々の困り事では笑顔を絶やさない強靭なメンタルの持ち主でもある。

 そんな母さんの笑顔が消えたのは、僕が若い先生の妊娠を言い当てた時だった。

 そろそろ園に子供ができた事を報告しようかと考えていた矢先だったという。

「ここにだれかいるねぇ」

 と、僕が先生のお腹を撫でたそうだ。

 本当に自分がそのような珍プレーをしたのかどうか、僕はまるで覚えていないけれど、母さんが言うには、感動して鳥肌が立ったと先生は笑っていたらしい。だから本当にやったんだろう。

 お迎えの時に、僕の珍プレーを先生から聞かされた母さんが、手に持っていた保育園セットをぼとりと落としたのは、僕も記憶している。その日の夜、母さんは電話をした。滅多に姿を見せない、遠く離れた場所に住む、苗字の違う父さんに。

「先生。愁一郎は先生にそっくりです。きっとこれから、先生の助けが必要になりますよ。だから一度、真識を見せてあげてください」

 母さんは父さんを、『先生』と呼ぶ。

 背中越しに見えた母さんの頬には、涙が一筋伝っていた。

 ましき?

「なにそれおいしーの?」

 僕は受話器を置いた母さんの横に行くと、初めて聞いた単語の意味を訊く時に母さんがやるように、おどけて言った。泣いている母さんが笑ってくれればと思ったんだ。

「うん、おいしいよ」

 母さんは微笑んで言った。

「おいしくて、きれいで、優しい人がいっぱいの、夢みたいな場所。先生が愁一郎を、連れて行ってくれるって」

「え。せんせーと、ぼく、ふたりだけ?」

 正直その時の父さんは僕にとって、知り合いのオジサン程度の人でしかなかった。当時、父さんと母さんは僕にも『せんせい』呼びを求めていたし。そんな環境で『せんせい』を家族同然になど、思えるわけがない。

 父さんの見た目は、俳優並みに整っている。加えて、友達のお父さんに比べて妙に落ち着いていて風格があるのは、子供の目から見てもよく分った。だから、『せんせい』はちょっと変わった凄い人なんだ、という特別感は、幼いなりに抱いていた。

 けれど僕にとって『せんせい』は、あくまでよそのオジサンでしかなく、いくら姿が良かろうと、優しかろうと、結局は他人さんと同じ。そんな人が運転する普通車で二人っきりのドライブをするなんて、居心地が悪いに決まっている。かといって、行きたくない、とも思わなかった。母さんの言う『夢みたいな場所』というのがどんなものか、知りたかったからだ。

 父さんが運転する車の助手席で僕は、持参したビスケットが無くなると、ひたすら寝たふりを決めこんだ。道のりは、およそ五時間。絶えまない精神的緊張と、くねくねした山道の連続だ。父さんが真識特製の酔い止めを飲ませてくれなければ、僕は車内で盛大にリバースしていたに違いない。

 蛇のように曲がりくねった山道の次は、清流の上にかけられた車一台ぎりぎり通れる石橋を渡った。そこから舗装されていない細い砂利道に時折タイヤを滑らせながら進んだ先に、洞窟みたいなトンネルが口を開けて僕達を待っていた。

 ほの暗いトンネルを出た先でもたらされた感動は、思わず「わあ」と声を上げてしまうほどに大きかった。

 ゆるい斜面に集落を広げた、秘境のような景色。秋の盛りを迎えた紅葉の中に、人間の営みが小さな屋敷林や畑や棚田となって存在していて、それらを囲む山々はまるで、巨大な生き物のように思えた。

 村の風景はただただ鮮やかで美しく、僕は衝動的に助手席の窓を開けた。

 髪や頬に触れてきた風からは、落ち葉のような深く甘い香りの中に、ほろ苦さと青臭さを感じた。それが、この村に染みついた生薬の匂いだと知ったのは、この村の要である、治療所を兼ねた大屋敷に足を踏み入れてからだ。そこは、真識をまとめる族長の住処だった。

 田舎の廃校みたいな木造建築である大屋敷は、集落の頂上に建っている。父さんが運転する車は、村の坂道をえいえん登り、大屋敷前の来客用駐車場に停まった。

 車から降りてまず感じたのは、地面から押し上げて来るような強い大地のエネルギー。僕はそれを、大の字になって足の裏から受け止めた。

「おおお……」

 語彙が貧弱な五歳児が口で表現できた感激は、その程度。駐車場の端へ一目散に走ったのは、村を一望したい欲求に駆られてだ。

 眼下に広がったのは、箱庭のような集落。見渡す僕の目の中に入ってくるもの――小川も、林も森も、田んぼも、畑も、そこで働いている人達も、空を飛んでいる鳥も――全てが輝いて見えた。

 ザルを片手に田んぼのあぜ道に屈んでいるお婆さんがいた。その人は、ザルを置いて、地面に向かってさっと手を合わせてから、草をプチプチと千切ってザルに入れ始めた。

 ちょうど隣に父さんが来たので、「あれ、なにしてるの?」と僕は指をさして訊ねた。

「ヨモギか何かを採ってるんじゃないか?」

「どうして、おててあわせた?」

「お礼を言ったんだよ。『いただきます』って、ヨモギと、それから土地の神様に」

「ほおお。ごはんたべるときとおなじだ」

「ああ、その通りだな」

 父さんが僕を見下ろして、目を細めた。

 歳をとっていても、雰囲気が上品でなまじ顔が良い人である。美しい笑顔をもらえただけで何だかもの凄く褒められたような気になり、この瞬間から僕は父さんが好きになった。我ながら、ちょろい子供だ。

「すごいねえ。ぜんぶ、きれいだねえ。ここすきかもしれない」

 僕は父さんに、思ったままを無邪気に伝えた。

 父さんが、僕の頭をくしゃりと撫でた。母さんも、初めてここに来た時に僕と同じようなことを言ったのだ、と苦笑って。

 僕は真識で過ごした数日の間に、山姥みたいな族長におののき、生薬の匂いに酔い、薬草園を散策し、村を走り回った。意気投合した浅葱と美味しいご飯をたらふく食べ、現代医学の守備範囲からあぶれた人達に施される療術の神秘と、施術師が持つ指先の美しさに魅せられた。

 そして気付いたんだ。ここの人達は、僕と同じだ、って。草木の陰にすっと溶け込み、ふとした拍子に人の体の中が頭の後ろで視える人達なんだ、って。僕は別に、変じゃないんだ、って。

 家に帰る日。車のハンドルを握る父さんが、助手席から村人達に手を振っている僕に言った。

「なあ愁一郎。俺は、あんまりお前と真識に繋がりを持たせたくないんだ。菊乃は、これは避けられない縁だと言うが、真識人は危険にさらされているし、この場所は段々と廃れてそう遠くない未来、消えてなくなるだろうから」

 父さんは相手が子供だからといって、簡単な言葉を使う人ではない。

 すたれるって、なにそれおいしーの?

 母さん相手だったら即座にそう返しただろう。でも、横にいたのは父さんだ。冗談を言い合えるほど、僕らはまだ馴染んでいなかった。

 だけどそれ以上に、物悲しそうな父さんの横顔を見たら、ふざける気にはなれなかった。

『消える』という単語から、何となく『すたれる』という言葉の意味を幼い頭なりに推測した僕は、こう答えた。

「だれかがさいごのひとりになるんなら、ぼくがなるよ。あぶないなら、あぶなくないように、つよくなればいいんだよ」

 危険だとか。将来性が無いとか。僕にとって真識は、その程度の理由で諦められるような場所じゃなかったんだ。



「ねえねえ、谷原クンて、親戚のおばさんの家に下宿してるんでしょ? いつも食べてる美味しそうなお弁当はぁ、おばさんがつくってくれてるのー? どうして最近はパンが多いのかにゃー?」

 五分後に体育館で飛び箱の予定であるはずのお友達が、グラウンドでサッカーを予定している男子生徒である僕の元に駆け寄ってくる。

 体育は男女別だよ、名取さん。商店街の薬局に置いてある腕が動く招き猫みたいな事してないで、さっさと体育館に行って下さいよ。

「急がないと遅刻するよ」

 質問に答える気なんてさらさらない。早く追い払ってしまおうと、名取さんの肩を掴んだ僕は、体育館の方へと押す。

 危険なら強くなればいい、なんて、五歳の僕はとんだ浅はか者だったと思う。強くなったからって、危険が遠ざかってくれるわけじゃないんだから。しかも、こんなヘラヘラした悪気ゼロの人まで警戒しなきゃいけないなんて。僕は生まれて初めて、真識でい続けることの難しさを感じているよ。

 名取さんは、両脚をつっぱって僕の押し出しに耐えている。

「き、今日一緒に帰る約束してくれたら、今すぐダッシュで行ってあげる、んだけど!」

「帰る方向が真逆だから絶対無理ですねえ!」

 もう手を離してグラウンドに行ってしまおうかという考えがふとよぎった、その時。

「メスブター!」

 頭上から、聞き慣れた怒号が降って来た。木村先輩だ。

立ち入り禁止区域で何やってんの。あの人。 

「誰がブタだ! 喧嘩上等だ下りて来い!」

 茫然と屋上を見上げている僕の横で、名取さんが中指を立てて威嚇する。

 先輩は、自分は家畜とは喧嘩しないんだと毒を吐いた後、間をおかずにこう続けた。

「そいつは俺の舎弟だ! まとわりついたら養豚場送りにするぞコラァ!」

「えっ」と声を上げた名取さんが、物凄い勢いで僕を見る。

「ウソ。谷原クン、子分ってマジで?」

 いやいや、僕も初耳だ。



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