第10話
一時間目の数学が終わって、僕は自分のクラスに戻ってきた。数学と英語は一学年全員が学力別にクラスを編成されているから、クラスメイトと一緒に授業を受けるのは、二時間目の古典からになる。
僕はロッカーの中から古語辞典を取り出しながら、今朝の所業を悔いていた。
あれはちょっとやりすぎたかな。
今朝も電車で待ち伏せしていた名取さんに対して僕は、昨日思案した撃退法を試してみた。効果は絶大。絶大だったけど……あれは施行した者の胸まで痛ませるから、もうしたくない。
能天気な笑顔をひきつらせ、徐々にしどろもどろになっていった名取さん。学校に着いて靴を履き替えた頃、彼女の姿はなかった。
傷つけてごめんなさい。でも、ものの例えじゃなく、こっちは命がかかっているから。だからどーか諦めて下さい。心の内で、手を合わせた。
自分の席に座った僕は、教室をぐるり見渡す。名取さんの姿はまだ無い。
もしかして、帰ってしまった。とか?
僕は不覚にも、泣きながら家へと引き返す彼女の背中を想像してしまった。
あ、また胸にザクっと罪悪感が。
胸をさすっていると、雷みたいな足音が教室に近づいてきた。
誰だよ? 廊下をダダ走ってんの。
「谷原クン!」
犯人は名取さんだった。扉を開けて、物凄い形相で僕に突進してくる。その顔を見た瞬間に気圧された僕は、思わず逃げの姿勢に入ってしまった。だけど、後ろの机に椅子の背もたれがつっかえて、結局、立ち上がった時点で彼女に捕まってしまう。
「ななな、なに?」
これまでで一番の気迫。まるで、討ち死に覚悟の侍みたいな。しかも何故か、小脇に抱えられた一本のミネラルウォーターが、飲用水らしからぬ強烈な存在感を放っているんですけど。
先生が来るまでの空き時間を談笑にあてていたクラスメイト達も、鉄球が突っこんできたような名取さんの登場に驚き、雑談を中断して僕達を傍観している。
名取さんこの人、僕相手にデスマッチでも始める気?
名取さんは重々しい口調で、もう一度「谷原クン」と僕の名前を呼んだあと、スカートのポケットからあるものを取り出して、僕の目の前に突き付けた。
「君の記事を書かせて下さい!」
それは、勧善懲悪の時代劇でお馴染みの印籠――じゃなく、この三日間幾度となく見てきた、オレンジ色のメモ帳とペン。
僕は全身の力が抜け落ちるのを感じて、後ろの席に両手をついて身体を支えた。
立ち直ったんだね。とっっても打たれ強い人なんだね。名取さん。
僕は心の中で泣いた。彼女が元気を取り戻してくれた事にほっとしたからか、もしくは振り出しに戻った事が悲しくて仕方が無いのかは、自分でも分らない。分らないけど、取材をお断りする、という意志だけは変わらない。
「ダメ、です」
「理由をどうぞ!」
はい! と名残さんがペンをマイク代わりに僕の口元に持ってきた。
「プライバシーを詮索されるのが嫌なんです」
こんな事言ったらクラス中の反感を買うかもしれないけれど、僕ももう、後が無かった。
「T・Sクンで提出するわ。それで手を打たない?」
「打ちません。他人様にプライバシーを知られる事に変わりはありません」
男子生徒の誰かが、「谷原ってキッツイな~」という非難をぼそりと吐いた。
ううっ。本当にもう勘弁して。
「人類みな兄弟と言うじゃないか! この世に他人など一人もいない!」
名取さんは僕の答えに対し、速攻で次の攻撃をかけて来る。
なんだかこの感じ、昔父さんとやったスピードオセロ(相手が石をめくり終わったら、すぐに石を打つルール)と似てるな――って、思考が脇道にそれようとしているのは、疲れのせい? それとも、僕の本能が白旗を上げかけているから?
「そんな突飛な発想が通用するのは、幼稚園までだよ」
僕が反撃すると、名取さんは賭けに負けたおっさんみたいに舌打ちして、腰に手を当てた。しかも、完全にガニ股になっている。
「世知辛いわね!」
「それが現実です」
「ええと、それじゃあ、それじゃあ……」
やっと攻撃の手を緩めた名取さん。頭を抱えて髪をぐしゃぐしゃかき回し始める。
お困りの心境がとてもよく分るジェスチャーだね。でもやめたほうがいいよ。ただでさえ自由な髪型が余計自由奔放になって、頭の上が無法地帯に変わりかけている。
それにしても、どうして皆さん、見守ってるだけなわけ? いい加減、誰か止めてやんなよ。黒板の前で突っ立ってるあなたも、机の上に腰かけてるおたくも、名取さんのお友達でしょうが。見てて心が痛まない? このままじゃ名取さんはどんどん惨めになっていくだけじゃないか。僕だって、どんどん悪者になっていく。
「もう諦めて別のネタ探しなって」
「あたしとお友達になってください!」
僕が言ったってどうしようもない助言の続けざま、ぱっと顔を上げた名取さんが叫んだ。
教室全体が絶句する。
テンポよく返答していた僕も、流石に返す言葉がなかった。まさか、そうくるとは思っていなかったんだ。けれど同時に、なかなかやるな、って感心した。だって、同級生から「友達になって」って頼まれて断る人はまずいない。断る理由なんか、相手が嫌いだって以外、そうないし。「付き合って」なら、また別だけど。友達という条件なら、大概の人が、「はぁ、まあ友達ならいいけど」って、何となく居心地の悪さと違和感を覚えながら答えるんじゃないかな。
でも、彼女の場合は純粋に僕と友達になりたいんじゃなくて、明らかに下心が存在している。つまり彼女と友達になるってことは、イコール色々探りを入れられるって事で……。
「……いいよ」
思案した末、僕は答えた。
途端、周りからどよめきや歓声が上がる。
なんなんですか、この教室内の異様な盛り上がりようは。
「やった!」
名取さんが両拳を強く握ってガッツポーズをとった。歓喜していらっしゃるところ悪いけれど、大事なポイントはきっちり抑えさせてもらっとくよ。
「でも、取材してきたら絶交します」
名取さんが、一気に肩を落として意気消沈する。分かりやすいなぁ。
名取民子さん。まるまるした三毛猫みたいな、部活に熱心な女の子。高校に入って、初めてできた友達だ。
けったいな条件付きだけど。
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