第5話
身支度を済ませた僕は、スクールバッグを肩にかけ、足にじゃれついてくる危なっかしい老犬を抱きかかえると、階段を駆け下りた。目指すは食堂。階段を下りた正面だ。
「浅葱! 弁当できてる?」
ガラス引き戸にぶつかりそうになりながら食堂に駆けこんだ僕は、入って左側にある配膳カウンター奥の厨房で、分厚い背中をこちらに向けている青年に声をかけた。ピンクの三角巾を被ったそいつは、振り返る事無く何やらせっせと作業をしながら、「まだだ」と野太い声で返して来る。
「え。浅葱も寝坊したってこと?」
珍しい事もあるもんだと目を丸くしていると、「昨晩は遅くまで梅仕事しとったからのう」という、のんびりとしたしわがれ声が聞こえた。族長だ。昨日、高校中退をめぐって問答した時と同じ席に一人ぽつんと座って、おにぎりを食べている。
「お、おはようございます」
オジイを抱えたまま、ぎくしゃく挨拶すると、族長はいつも通りゆっくり顔を上げて、「あいおはよう」と白濁した目を僕に向けた。
「おい愁一郎。あと二分待て」
浅葱がカウンターの向こうから、指図してくる。
二分! 冗談だろ。
オジイをぼとりと落とした僕は、配膳カウンターに詰め寄った。
「無理無理無理だって! 電車に遅れる!」
一九〇センチある長身を折り曲げて、ごつい指で器用に菜箸を使いながら弁当箱にエビフライを詰めているゴリラ顔の男に、僕は大きく首を振って不可の意を示した。弁当箱の横にある皿には、ミートボールだの切干大根の煮物などが残っている。
「大丈夫だ。お前なら待てる。山道下る間ノンブレーキで突っ走れば余裕で間に合うぜ」
なんという無茶ぶりだ。僕は「よく言ったなその口が!」と怒鳴った。
僕は知っている。四年前に高校一年だった浅葱は、今の僕と同じく遅刻しかけて、ノンブレーキで山道を突っ走った。挙句、自転車ごと谷底に落ちて左脚を骨折したんだ。なのに、弁当を持って行かせる為に幼馴染にもそれをやらせようっていうこいつの気が知れない!
ふと、厨房の壁一面にずらりと並んでいるビン詰め食品が目に入った。梅と氷砂糖が交互に詰まっている大瓶が三つ、列の最後に並んでいる。保存食作りは浅葱の趣味だ。族長が言っていた梅仕事って、これの事か。多分、梅干し用に塩漬けたやつもどこかにあるはずだ。一体何時までやってたんだか。
弁当を諦めた僕は、味噌汁をすすっている族長に「いってきます」と軽く会釈をしてから、食堂の出口へと走った。
「はい、いっといでー」
族長の、ワンテンポ遅れた声が僕を送り出す。
「オメー! 電車と俺の手作り弁当とどっちが大事なんだよ!」
後ろから聞こえてきた浅葱の怒号に短く「電車!」と答えた僕は、玄関へと急ぐ。
玄関を出た先は、小学校のグラウンドみたいな駐車場が広がっている。僕のマウンテンバイクの定位置は、道具小屋の軒下だ。一夜で張られた蜘蛛の巣をさっと手で払ってから、自転車に飛び乗った。
大屋敷の駐車場からふもとの町までは、ひたすら下り坂だ。青々とした田畑の間をまっすぐつっきる道を滑るように下りながら、畑仕事を始めている年上の同胞達とすれ違いざまに手を上げ合い、簡単な挨拶を交わす。屋敷に出勤する真知さんともすれ違い、「事故らないようにねー」と見送られた。
鬱蒼とした山林にぽっかり穴を開けている洞窟のようなトンネルを抜けたら、ただの山道に出る。清々しかった空気が一気に密度を増し、森林の濃い臭いに変わる。そこはもう、真識の外だ。
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