第三章 かねてこそいへ 4

 ところが、翌朝、まだ朝靄も晴れやらぬ時間帯から、来訪を告げる声に驚かされることになった。何事かと跳ね起きて、門を開けると、正通が立っていた。謝礼などそう急ぐ必要もなかったのに律儀な男だなと思って、その顔を見遣ると、一晩中寝付けなかった者のごとくに瞳が充血していた。疲れ切った表情といい、困惑した様子といい、何やら雲行きがおかしい。

「どうしたんだ」

 声をかけると、正通は懐から震える手で文を取り出し、俺に差し出した。

「これを、見てください」

 それは正通が女に宛ててしたためたもののようだった。昨日俺が代詠した歌も間違いなく記されている。その脇に小さな文字で、


 みづの森下葉に通う秋風は頼みと思ふかひやなからん


 そう俺の歌に対する返歌が書き添えられていたのだった。

「これは……」

「昨日あれから家に帰って、早速文をしたためてみたのです。あれほどの歌を作っていただいたので、よもやつれなくはあしらわれまい。もしかすると私を哀れに思ってこの晩にでも逢ってくれるかもしれないなんて淡い期待を抱いて、夕べには女の元へ文を届けに参りました。ところが、門を開けてくれるどころか、そのまま返歌を書き加えられただけで突き返されてしまったのです。この頃はずっと冷淡でしたが、文すら受け取ってもらえないなんて今回が初めてで、私はもうどうしたら良いのか……」

「落ち着け。これは確かに、その女の文字なんだな?」

「はい。ずっと見てきましたから、間違いありません」

 俺は率直に言って、驚いていた。正通の語り草からしてもそれなりのたしなみはあるのだろうと思ったが、場末の小路なんかに住んでいるのだからと内心侮っていた部分もあった。それがこの見事な返歌はどうだ。俺が美豆の森と詠んだのを受けて、そこに吹き通う秋風は頼みとする甲斐がないと続けている。この秋風に、飽きの意味がかかっているのは明らかだ。

 男を門前に一晩中立たせていたわけでもなし、これほどの歌を短時間で返してきたとすれば、女の実力に対する認識をかなり改めなければならない。

「飽いていると言われる心当たりはないのか。例えば、他の女の元に通っているのを知られたとか」

「そんな、滅相もない。貧しい文章生の私に、方々に女を作る余裕なんてありませんよ。彼女に直接話したことはありませんでしたが、私が進士になった暁には北の方として迎えようと思っていたくらいだったのです」

 事実はどうあれ、女が怨みの一端をのぞかせたのは手がかりとなり得るか。ただ、男の飽きを嘆くというのはよくある返歌の手法ではあり、女が本当の理由を隠すためにおざなりな非難をしかけてきたとも考えられた。

 考え込む俺を前にして、正通もようやく落ち着いてきたのか、今さらになって自分の無礼を詫びた。

「す、すみませんでした。早朝から突然お訪ねしてしまって。こんな結果になるなんて思いもしなかったものですから。すっかり動転して、お礼の品をお持ちするのすら忘れてしまいました。すぐに家に戻って取って参ります。こんな情けない私だから、彼女も不実を疑ったのでしょうね」

「まぁ、待て」

 俺は立ち上がり家を辞そうとする正通を呼び止めた。

「まだ諦めるには早い。これへの返歌をもう一度俺に任せてくれないか」

 正通は驚いた表情になった。

「そ、それは、そうしていただけるのなら、この上なく心強いですけれど……。貧乏学生の私には十分な謝礼をお支払い出来るかどうか」

「そんなことはこの際どうでも良い」

 このまま正通と女の関係が途絶えたとなっては、俺の歌が氏素性も知れぬ女に敗北したということになってしまう。そのような屈辱、あって良いはずがあろうか。いや、良いわけがない。

「乗りかかった船だ。これで終わらせてなるものか」

 ただ、正通が返歌を受け取ってから、もう一晩が経ってしまっている。これで前の応酬を踏まえた森や秋風の歌を詠んだとしたら、流石に反応としては遅すぎて格好がつかない。つまり、前までの流れとは別の切り口から攻めねばならぬということだ。こればかりは俺もこの場でさらさらと詠み流すわけにはいきそうもなかった。もっと腰を据えて戦略を練らねば。

「一日だけ時間をくれ。必ず女が言い逃れ出来ないような歌を詠んでみせるから」

「本当に親身になってくださって、ありがとうございます」

 正通は感極まった様子で、何度も頭を下げて帰っていった。俺は結局自分の名誉のために意地になっているだけだったが、一々誤解を解くのも面倒なので放っておいた。

 改めて正通から預かった返歌の筆跡を見直した。一見書き流しているように見えて、細部まで力の抜けた感じはない。意識して丁寧に美しく記してある文字だ。関係を絶とうとしている男に対してもそうした文字を書くということは、律儀で、かつ自分の印象は損ないたくないといった女だろうか。そうした相手だと想定して、心に響く歌を考えなくてはならない。

 じっと文に向き合っていると、再び出し抜けに門をたたく音がした。正通が何か忘れ物でもして戻ってきたのかと思い、すぐ外に出て門を開けた。

 すると、そこに立っていたのは重之だった。

「よぉ。さっき正通に会ってよ。お前がまだ諦めずに頑張っているっていうから様子を見に来てやったぜ」

「気を遣っているつもりなら、そっとしておいてくれた方が集中出来て良かったんだが」

 嫌味を言っても重之に全く堪えた素振りはなく、陽気に笑うだけだった。

「しかし、すごい出来だと思った昨日の歌でさえ、まんまと上手く返されちまったんだろう? あれを超えるような歌なんてすぐに詠めるのか?」

 人のやる気をそぐことを言う。

「それでもやらなきゃならないんだよ」

 むっとしてそう言い張ると、重之は微笑みながらもどこかこちらを探るような目付きでこう言った。

「……なぁ、もう手を引いたって良いんじゃないか」

「何?」

 こいつは正通のために歌を詠んでほしいのか、そうじゃないのか、どっちなんだ。

 俺の不審のまなざしを感じたのであろう、重之は言いにくそうにこう続けた。

「俺から持ち込んだ話でこんなことを言うのもなんだが、この依頼、相当無茶な内容だろう。昨日は正通の手前言えなかったが、そんな急に女の態度が変わるなんてのは、必ず原因があるに決まっているんだ。正通が忘れているだけでひどく傷つけることを言ったのかもしれないし、返歌にあったように実のない態度を見せたのかもしれない。それを当人が思い出してもいないのに、歌一つで相手が許すものかよ」

「お前が昨日言ったんだろうが。それでも鬼神の心を動かすのが歌だって」

「そりゃ、理想だよ。現実はそう単純じゃない。お前だってよくよく分かってるだろ。ただお前ほどの名手に頼めば、正通も諦めがつくかと思っただけだ。それをお前までむきになってどうする。本気であと一回やり取りをしただけで、問題が解決できると思っているのか?」

 重之の言うことは筋の通った正論だった。だからこそ、受け入れるわけにはいかない。

「俺は他人の恋路なんか最初からどうだって良いんだよ。無理だからって最初から諦めるのが嫌なだけだ。たとえ昨日の歌より出来が悪くなろうが、状況が悪化しようが関係ない。とことんまでやれることをやり尽くさなけりゃ……」

 俺はこぶしを握り締めた。

「自分自身が許せないんだよ」

 そんな俺に重之は呆れたような、感心したような視線を向けると、

「……お前をこの一件に巻き込んだのは失敗だったかもしれないな」

 と呟いた。

「何だと?」

 あまりに無責任な言い分に鼻白むと、重之自身もそう感じたのか、すぐさま訂正した。

「悪かった。失言だ。せいぜい気の済むまで頑張ってくれ」

 そう言うだけのことを言って、重之は母屋へ上がりもせずに帰っていった。

 本当にちょっと様子を見に来ただけだったらしい。付き合わされるこちらが良い迷惑だ。憤慨しつつ、俺は浪費した時間を取り戻すべく、急いで再度詠作に取りかかった。


 ところが、その進捗ははかばかしくなかった。

 恋歌としてそれなりの出来のものはいくつか詠めたが、どれもこれもこの女への贈歌と考えるとしっくり来ず、決め手に欠ける感があった。思い出の梧桐なんかも詠み込んでみたものの、思い入れを抱いているのが正通の側だけという可能性もあり、これと思い切れなかった。第一、疎遠になってから最初の出会いを訴えかけるなど未練がましいし、陳腐だ。もっと正通ののろけ話に身を入れて耳を傾けておくべきだったか。

 そんな後悔を抱えつつ、試作を繰り返しているうちにいつしか日も暮れ方になっていた。壁に突き当たった感覚は否めず、少しでも気分を変えるために近所を散歩してこようかなどと真剣に考え始めていた折だった。

 再び門をたたく音が聞こえた。

 正通の方で何か進展があったか、それとも重之がまた冷やかしにでもやって来たかと思って戸を開けてみると、そのどちらでもなく、立っていたのは順だった。

「曾丹、今夜は久々にさしで飲まないか?」

 全く、こいつらときたら。好き勝手な時にふらりとやってきて、好き勝手なことばかり言いやがって。こっちの事情というものを一体何だと思っているのか。

「あんたの泥酔には付き合ってやれないぞ。あいにく俺は忙しいんだ」

「そうだな。お雨はいつも忙しいな」

 こいつ、ちっとも本気にしていないな。

 あんたのところの弟子に恋歌の代作を頼まれて、それで苦労しているんだぞとよほど口まで出かかったが、そんなことを告げ口するのは正通も哀れだと思われて、仕方なく黙っていた。

 順は俺の沈黙を前回訪問してきた際のひどい悪酔いを危惧してのことと解釈したらしく、案ずるなと言って懐から何かを取り出した。

「恵慶と飲んだ時は盃ばかり傾けておったから酔いすぎたが、今日は大丈夫だ。つまみ代わりに探字の和歌でもやろうと思って用意をしてきた」

 探字の和歌とは、漢詩文に倣った和歌の遊びの一つで、一文字仮名の書かれた紙をお互いに引き、そこに指定された文字を一首の最後に必ず据えて歌を詠むというものだ。順が取り出したのはその紙を入れた袋なのであろう。奴が振って見せると、中でかさかさと紙片が擦れる音が聞こえた。

 ただ、酒を飲むだけと言ったならば何としても追い返すつもりだったが、それで俺の気も変わった。詠作で行き詰った時、いっそ歌で遊んでしまうほうが突破口になり得ることを経験上知っていたからだ。

「……仕方ないな。上がれよ」

 俺が差し招くと、順はそうこなくてはとでも言いたげに微笑んで後をついてきた。室内はいつの間にか暗くなっていたので、灯りを点して回っていると、順は勝手知ったる様子で台盤所から盃を二つとってきて、持参した酒を注いだ。

 俺が戻ってくると、

「まぁ、一つ乾杯」

 と言って盃を掲げるので、どっかとその場に腰を下ろして盃を拾い上げた。冷えた酒ではなかったが、考えすぎで疲れた頭にはよく沁みた。それから二度ほど盃を空にした後に、順の先手で探字の和歌を開始した。

「私は、『い』か。どうとでも詠めそうだな」

「俺は、げぇ、『あ』かよ。あで最後終わる言葉なんて何があるよ」

「あぜの意味の畦(あ)があるだろう。だが、これは私が先に言ったから、お前が使うのはなしな」

「ちくしょう。卑怯だぞ」

 俺は頭の片隅で必死にあで終わる言葉を探しながら、一方で雑談の体を装って尋ねた。

「……橘正通というのはどういう男だ?」

 時間稼ぎのつもりもあったが、同時に真剣な問いでもあった。付き合いの長い順なら、俺よりは客観的に深いところまであの男のことを知っているだろう。女から浮気を疑われても不思議のない男なのか、本人以外から正直なところを聞いてみたかったのだ。

 順は意外な名前を聞いたという風に眉を上げた。

「正通か。それなら私の教え子だが、どうした、突然」

 俺は代詠を頼まれたことは伏せて、重之と一緒に訪ねてきたとだけ告げた。それを聞いて、順は気遣わし気に顎鬚を撫でた。

「至って真面目な男だが、最近は物思わし気に沈んでばかりで、学業にも身が入っておらず心配していたのだ。まさか重之なんぞと遊びまわっていたとは。付き合う相手は選べときちんと教えておかねばならないな。重之や曾丹などにかかわっていてはいつまで経っても立派な学者にはなれないぞ、と」

 黙って聞いていたが、俺もかよ。

「じゃあ、今この家に来ているお前はどうなるんだよ」

「私はすでに偉大な学者だし、付き合い方も心得ているから問題ない」

 それがいきなり家を訪ねてきて、酒飲みに付き合わせるって扱い方かよ。

 怒りを通り越して物を言う気にもならなかった。一方の順はそこまで言って、どこか寂し気な口振りになった。

「しかし、重之も変わってしまったな」

「あいつが?」

 昨日今日と会った限り、以前と変わりのない調子の良い男だとしか感じなかったが。

 俺がぴんと来ていない様子なのを見て取って、順は言葉を選ぶようにして話を続けた。

「先日参内した時に、あやつが少納言兼家殿の近習と話しているところに居合わせたのだ」

 少納言兼家といえば、今年の五月に死んだ右大臣師輔の三男だったか。

 摂関家の若い公達の中でも特に色好みで、方々に美人の通いどころがあると、やっかみ交じりの噂を聞いたことがある。そんな権門の貴公子の家来と、無位無官の重之との間に何の縁があるというのか。なおも話の行く先が見えない俺に対して、順はもっとあけすけに話すしかないと悟ったらしかった。

「あやつの卑屈そうな笑い方と、それに応じる近習の横柄な態度とで、私はすぐに察したよ。少納言殿に任官の便宜を図ってもらうつもりなのだな、と。あやつの家には子供が多い。当然物入りなのも分かっている。だが、それでも少し寂しく思わざるを得なかったよ」

 順は遠い目をした。

「腐っても皇族の血を引く源氏が、生活のためとはいえ、藤原氏の、さらにその家臣のご機嫌までうかがわなくてはならないとは。十年前、重之と初めて出会った時は、快闊な青年で自分の才覚一つで成り上がっていくのだという気概に満ちていた。実際、あやつの歌の才は大したものだった。私も当時はまだ実力があれば正当な評価がついてくるはずと信じていたから、二人して将来の展望をよく語り合ったものだ。それが今やどうだ」

 順は自分の盃に酒をなみなみとついで、一気に飲み干した。

「結局、世の中など縁故だけで回っていくのだと思い知らされただけだった。私だって、重之を咎める資格はない。文章博士への推薦欲しさに、内裏歌合では藤原氏の誘いに応じて右方についたのだからな。友人たちも皆変わっていく。変わらないのはすでに世を背いている恵慶と、世に背かれている曾丹くらいだ」

「どういう意味だ、それは」

「私は自分が情けない。先祖に合わせる顔がない」

「おいおい、泣くなよ、大のおっさんが。みっともない。今日は悪酔いしないって約束だったじゃねぇか」

「そうだ。私など約束一つ守れぬ、みっともないおっさんなのだ。……歳々年々人同じからず」

「あーあ、また漢詩が出てきちゃったよ」

 その後は泣きじゃくる順を慰めるのに精いっぱいで、結局探字の和歌など一応酬もできなかった。順は泣くだけ泣いてすっきりしたのか、夜半過ぎに鼻歌交じりの千鳥足で帰っていった。

 俺はそのまま眠る気もしなくなって、順が置いていった酒を傾けながら、縁に出て月を見ていた。そうして順のしていった話を考えるともなく考えていた。


 気が付くといつの間にやらうたた寝をしていたらしい。門を遠慮がちにたたく音が聞こえたと思って目を覚ますと、すでに日が高く昇っていた。門口まで出てみると、正通が所在なさそうに立っている。家へ上がるよう促した。

「昨日の今日でお訪ねするのも、催促するようで気が引けたのですが……」

「気にするな。俺が一日だけくれと言ったんだ」

 俺の平静な口振りに、正通は驚いた表情を見せた。

「では、もしかしてお出来になったのですか!?」

 明らかに俺が寝起きの顔だったので、内心期待は出来ないと思っていたのだろう。だが、俺もそこまで無責任ではない。夢の中に運ばれるより前に、一応依頼されていた恋歌は完成させていた。

「ただ、お前の望む結果にはならないかもしれん」

 俺は文机に向かい、墨をすりつつ、そう断ることを忘れなかった。それを正通は単なる謙遜の辞と受け取ったのであろう。滅相もないと首を横に振った。

「すでにここまで協力していただいただけでもありがたいのです。それ以上の贅沢は申しません。本当に重之殿の紹介で曾丹殿にお頼みして良かった……!」

 その賛辞を俺は内心皮肉な思いで聞いた。墨をすり終えると、適当に選んだ古反故に用意しておいた歌をしたためた。

「後は文を書くなり、歌だけ別の紙に写して贈るなり、好きにしろ」

 正通は反故をありがたそうに押し頂いて、そこに記された歌を数回繰り返し口ずさんでいた。

「素晴らしいです……! 一昨日の歌とも切り口が全く違う。これにも前と同様返歌をつけてくるだけだったとしたら、初めから私には過ぎた女だったのだと諦めることにします」

 そう思いきるように言った後、正通は何度も礼を言って帰っていった。その姿を見送りながら、そうしてそっけないままで縁が切れる方が、あるいは正通にとっては幸せかもしれないなどと考えていた。

 母屋へ戻った俺は今度こそはっきりと一仕事終えた気の緩みから、昼下がりのとろとろとしたまどろみに落ちていった。

 こんな夢を見た。

 どことは知らぬ野原に俺は狩りに来ていた。同行者には重之や正通の姿もあった。茂みがひときわ大きく揺れて、何かの獣が潜んでいる場所がそこと知れた。

「狐だ! 早く射ろ!」

 重之が言う。俺は狐にしてはあまりに大きく揺れすぎではないかと思った。もし間違えて人を射ってしまったなら一大事だ。

 しかし、重之は、

「何をしている。早くしないと逃げられるぞ!」

 と重ねて言う。俺は急かされるままに引き絞った矢を放つ。


 というところで目が覚めた。

 気の落ち着かない夢を見たものだと思って起き上がると、庭の方から夢の続きのような草むらを分ける音が聞こえてくる。

 嫌な予感がした。

 恐る恐る音のする方角の縁に出てみると、丁度築地の穴から娘が顔をのぞかせるところとかち合った。

「好忠、来たわ!」

 にっこりと満面の笑みを浮かべる娘とは対照的に、俺は二日酔いとは別な頭痛がしてくるのを感じていた。あの妙な夢の原因はこいつの立てる音だったか。しかも、娘に続いて、礼の従者のおもと丸まで這い出てくるに至っては、もはや呆れるしかなかった。

「あのなぁ、お前も従者なら、こんな馬鹿げた外歩きなんてやめさせろよ」

 当人に言ったところで聞く耳など持たないことがこの短い付き合いで分かってしまったので、非難の矛先は専らおもと丸に向いた。すると、おもと丸はむっとして、

「誰が望んで姫様がこんなところに出歩くのを許容するものか。でもな、姫に一生のお願いと言って頼まれたら、断るなんて出来るわけがないだろう!」

 それはつまり、何でも言いなりなのと同義じゃねぇか。

「折角来たんだから、もっと歓迎してよ。これでも我慢してたのよ。流石に女房の中にも不審に思う者がいて、昨日は大人しくしてなきゃならなかったの。本当は毎日でも来たかったのに……」

 俺は心のうちでその女房に感謝した。連日こんなやつに来られていたら、頭が変になるところだった。いや、そもそもこんな外出を見過ごしている女房らが間抜けなのだから、感謝する義理は初めからないのか。駄目だ、やはりこいつらと話していると調子が狂う。

「それで、どうなったの?」

「何がだよ」

「決まっているじゃない。正通さんのことよ。好忠の歌を女の方に贈ったんでしょう? やっぱり物語みたいに歌に心動かされて、情け深いやり取りがあったりしたのかしら。それが気になって気になって、昨日もあんまり寝られなかったんだから」

 全くこの出歯亀お姫様は……。

「子供が面白がるようなことなんて何もねぇよ。ただ、返歌があっただけだ」

「返歌!? 一体どんなの?」

 目を輝かせて娘が問うた時、「曾丹殿、大変です、曾丹殿!」と取り乱した声が外から聞こえてきた。

 ……何という間の悪さか。

 突然の騒ぎにおびえた様子の娘たちに、今日は本当に構っている場合じゃないから帰れと告げて、俺は門への応対を急いだ。

 戸を開けると、ここまで走ってきたのだろう、汗だくになった正通が激しく肩を上下させながら立っていた。

「どうした?」

 何事か起こったのは明らかなのに、我ながら間の抜けた問いだと思った。だが、正通はそんなことは気にもかけず、半ば泣きそうな表情で言うのだった。もしかすると、汗でまぎれていただけで本当に泣いていたのかもしれない。

「彼女が、彼女が、消えてしまいました。どこにもいなくなってしまったんです!」

「いなくなった!?」

 あ、こら。

 背後から声がしたので振り返ると、いつの間にか娘とおもと丸が表まで出て来て立ち尽くしていた。

 あれだけ帰れと言ったのに、こいつらときたら。しかし、正通は子供に聞かれるのも構わず、話を続けた。それだけ気が動転していたのだろう。

「はい。今朝いただいた歌に文をつけて、あれからすぐに使いに持たせて送ったのですが、一向に返事がなく……。会ってくれないまでも、返事すらしてくれないのはあまりに情け知らずなふるまいではないかと我慢が出来なくなって、直接家を訪ねて行ったのです。すると、人気が全くないばかりか、門までも半開きになっており、中に入ってみると、調度品もそのままに住人が誰一人いなくなっていたのです。書き置きすらなく、まるで鬼にでも取り隠されたようでした。一体何が起こったのか分かりません。彼女はどうしてしまったのでしょう……」

 顔を覆い、うめく正通とは対照的に、俺は頭がだんだんと冷めていくのを感じていた。こうも速やかに反応があったということは、俺がもしやと考えていた予想は正鵠を射ってしまったらしい。

 同時に胸のうちにふつふつと怒りが湧いてきてもいた。こんな人騒がせな事態を招いた張本人には、それ相応の落とし前を付けてもらわなくてはならない。俺は苦悶したまま立ち尽くす正通に、とにかく家へ上がるよう促した。

「俺の考えが正しければ、必ず向こうから訪ねてくるはずだ」

 正通ははっと顔を上げた。

「曾丹殿には彼女の居場所が分かっておいでで?」

「居所までは分からん。だが、どういう経緯でこんな馬鹿げたことになったのかは何となくな。とりあえず息を吐いて待っておけ」

 その間にこっそり娘どもが母屋のうちに忍び込んでいるのは分かっていたが、わざとそのまま放っておくことにした。その方が、双方にとって良い薬になるかもしれないと思ったからだ。

 案の定、半刻もしないうちに待ち人はやってきた。馬のいななきが聞こえたかと思うと、またもや門を壊さんばかりにたたく音がする。そこには明らかに来訪者の怒りと焦燥がこもっていた。俺が門を開けると、重之が鬼の形相で立っていた。馬をつなぐこともせず、いきなり俺の胸倉をつかむと、

「何で、どうやって調べやがった!」

 答え次第ではこちらを殴りかねない勢いで追及してきた。そのお陰で俺はますます落ち着いた。こうまで取り乱すということは、心のうちにやましいところがある裏返しにほかならず、こちらが恐れる必要など微塵もないのだ。

「俺はただかまをかけただけだ。落ち着けよ、餓鬼どもが見てるぞ」

 背中に目がついているわけでもなし、適当に言ってみただけだったが、実際娘らがのぞいていることに重之も気付いたらしい。人の子の親だけあって、怒りを押し殺すように息を吐くと、俺の袂から手を離した。

「これは……一体どういうことなんですか?」

 外の騒ぎに我慢しきれなくなって出てきたのだろう。正通がおずおずと尋ねる声がした。重之はぐっと言葉に詰まり、横目で俺をにらんだ。

「……恨むぞ、曾丹」

 俺は鼻で笑った。

「恨むんなら、俺を巻き込んだ自分を恨むんだな。それより、折角ご両人がそろったんだ。積もる話もあるだろ。上がって、とっくり話していけよ。白湯くらいなら出してやるぜ」

 そうして二人を母屋に上げ、本当に白湯まで用意して運んできてやったのに、台盤所で聞いていた限り、どちらも一言も口を利いていない様子であった。

 全く、人の親切心を何だと思っているのやら。

「おい、重之。ここまで来て何も言わないってのは流石に往生際が悪いんじゃないのか」

 けれども、ばつが悪いのか、重之は正通と目を合わせようとはせず、専ら俺に対してだけ恨めし気な視線を向けた。

「……かまをかけた、と言ったな。つまり、お前の耳に入るまで噂が広まっているというわけではないんだな」

「ん? ああ。俺は適当に予想を立ててみただけだ。証拠らしい証拠なんてどこにもないからな」

 それを聞いてようやく少し安堵したのか、重之は小さくため息を吐いた。その態度が憎らしかったので、俺は少し皮肉を言ってやる気になった。

「しかし、大した慌てようだったらしいな。文を受け取ったその日のうちに、女と使用人をそっくりそのまま別の場所に移しちまうなんてな」

「ちょ、ちょっと待ってください。話の内容が全く分からない」

 途方に暮れた様子の正通が口を開くと、重之はまた押し黙る。仕方がないので、俺ははっきり言ってやった。

「つまり、この重之が梧桐の女を取り隠した張本人だってことだ」

「! 重之殿もあの女を知っていたのですか?」

「知っているどころか、身内だったんだな。そうだろ、重之」

 重之はようやく一切の隠し立ては無意味だと諦めたらしく、顔を上げた。

「……そうだ。あれは俺の妹だ。だが、どうしてそんなことが分かった?」

「初めから妙だと思ってたんだよ。お前がわざわざ俺に仕事を回してくるなんざ。いくら羽振りが良いと言ったって、禄ももらえていない身分じゃ限度がある。だから、何かこの仕事を受けるには都合の悪い理由が別にあるんだろうと思った。そうしたら、順の先生が、お前が少納言殿の家司と親しく話しているのを見たという。後はただの直感だな」

「……それだけで、あの返歌を詠んだのか。お前の勘の鋭さと人の悪さを見誤っていたな」

 重之が呆れかえった表情を見せると、正通が慌てて口を挟んだ。

「返歌? あの返歌がどうしたと言うんですか?」

「歌の中身は覚えているか?」

「ええ、勿論。間違えたりしないよう何度も繰り返し唱えましたから」

 そう言って正通は俺の作った歌を詠じた。


 結びおきしわが下紐も絶えぬらんかかるべしとはかねてこそいへ


 それまで静かに聞いていた娘もここに来て我慢しきれなくなったのか、口を開いた。

「? 普通の歌じゃない」

「そうですよね。ただ相手の変心をなじっているだけの」

 おもと丸も同調して言う。

「それはお前らにやましいところがないからだよ。隠したい秘密がある者にはこの歌は別の意味に聞こえる」

 重之を除く三人はここまで言ってもきょとんとしている。勿体つけるつもりもなかったので、俺はすぐに言葉を続けた。

「物名歌(ものなうた)だよ。俺はかねてこそいへの中に兼家という名前を含ませておいた。何としても隠し通そうと疑心暗鬼になっている重之と女にはこう聞こえただろう。兼家と情を通じていることは知っているぞ、とな」

「彼女が、兼家殿と?」

 正通が驚きの声を上げた。俺としても単なる杞憂であってほしいと思わなくもなかった。何事もなく俺の歌の仕掛けが気づかれなければそれでも良い、と、しかし、その後の女や重之の行動は、俺の推測が正しかったことを証しするものだった。重之は観念した様子で口を開いた。

「……つい先月のことだ。兼家殿が方違えの際に偶然妹の琴を聞きつけて、言い寄ってきたのが始まりだった。このことは正通には徹頭徹尾伏せるつもりだった。どう手を尽くしても妹が冷淡で通せば、正通も諦める。そうして自然消滅すれば、お互いに傷は浅くて済むと思った。だが、あの歌を受け取って事情は変わった。全てを知った正通が怒りに任せて乗り込んでくるかもしれない。それを恐れた俺は、元々近いうちに移り住ませる予定だった別邸に妹を隠す他なかった」

「最初の歌への返歌もお前が詠んだんだな。いくらなんでもそこらの女が俺の歌に即座に返せるはずがない。そんなことが出来るのは同じ名人の源重之くらいだ。だが、解せないのは何だってこんなまどろっこしい真似をしたのかということだ。初めから兼家に乗り換えるんでお前にはもう会えないと正通にはっきり伝えてやれば、ここまでこじれることもなかっただろうよ」

 俺が言うと、重之は苛立たし気にかぶりを振った。

「そんな単純な話じゃないんだよ。妹がすっかり兼家殿になびいたというのなら、気を回す必要もないかもしれん。しかし、実際には妹は一年続いた正通との関係に未練を残していた。それを俺たち家族が無理を言って、兼家殿の妾になることを承知させたんだ。家柄から言っても正式な妻になることは難しい。だが、それでも権門とのつながりが出来ることには変わりない。俺だっていつまでも無位無官のままではいられん。任官のたづきはどうしても必要だった。しかし、そんな事情を説明したところで何になる。余計に正通を傷つけるだけだろう。だから、何も告げずに関係を終わらせようとしたんだ」

「手前勝手なことばかり言ってるんじゃねぇよ」

 俺は御託ばかり並べる重之に許せないものを感じて、怒りを込めて言った。

「どっちにしろ、正通を傷つけることには変わりないだろうが。結局、お前たちは情よりも生活の糧を選んだんだ。そして、そうと指弾されることが怖かっただけだ。綺麗事で取り繕ったって、お前たちは卑怯者だよ」

 返す言葉も見つからなかったのか、重之は押し黙った。そこで口を開いたのは正通だった。

「……つまり、彼女は無事なんですね?」

 本心からほっとした表情で、微笑すらのぞかせたのだった。

「良かった。私が未練がましく付きまとったせいで、彼女の身に何かあったのではないかと心配していたのです。そうか、別邸に移っただけというのなら安心しました。それに、喜ぶべきことですね。少納言兼家殿に見初められたというのなら、うだつの上がらない文章生の私など見限られて当然だ」

 しかし、そこまで言うと正通は声を震わせ、袖で顔を隠した。

「……すみません。頭では理解していても、まだ心の整理が追い付かないようです。これ以上はお見苦しいところをお見せしそうですから、今日は帰ります。曾丹殿には本当にお世話になりました。お礼の品は後日必ず……」

 言いもやらず、急ぎ立ち去っていく正通を重之は咄嗟に呼び止めようとした。しかし、その資格はないと気付いたのか、伸ばしかけた手をそのまま下ろし、握り締めているのが目に入った。

「……今さら後悔なんてしてんなよ」

 念のため言い添えると、重之は頷き、誰よりもまず自分に言い聞かせるように呟くのだった。

「分かっている。俺たちのような弱小一族が生き残るためには、これはどうしても必要なことなんだ」

 そうして重之も立ち上がると、振り返ることもせず、馬にまたがって去っていった。

 母屋に残ったのは、眼前で繰り広げられる思いがけないやり取りに言葉を失っていた娘たち二人だけとなった。

「な? 面白い見世物じゃなかっただろ」

 この娘が何を期待して俺に付きまとうのか知らないが、作り物語めいた劇が見たいのなら、お門違いも甚だしいというものだ。良いとこのお姫様は、俺たち下層民の生活に未知なる興味を抱いたかもしれない。だが、現実に起こるのは、生活のためにあらゆることを妥協する、惨めな人間同士のやり取りでしかない。娘は娘で自分の生活に思うところもあるのだろうが、貧しい人間の方が自由だなんてのは幻想だ。上流階級は外聞をはばかることこそあれ、やはり心の余裕という点では、俺たちよりずっと豊かだろう。

てっきり俺は娘の口から幻滅や失望の言葉が語られるものと予期していた。ところが、ややあって娘が尋ねたのは全く別のことだった。

「好忠は、本当に正通さんに真相を知らせて良かったと思う? 梧桐の女君が別の人と結婚するなんて、正通さんは知りたくなかったんじゃないかしら」

 おずおずと上目遣いに問うてくる。

「世の中には知らない方が良いこともある。そうでしょう?」

 まさかそんな方面から非難されようとは思わなかった。こいつも重之と同じ考えというわけか。俺は苛立たしくなって、ぞんざいに答えた。

「知るか。俺はただ重之に思うように利用されているのが面白くなかっただけだ。いちいち正通の気持ちなんぞ考えていられるか」

「最低だな」

 おもと丸が呆れた様子で口を挟む。それには取り合わず、俺は言葉を続けた。

「大体、知りたいか知りたくないか決めるのは正通だろう。外野が勝手にその気持ちを決めつけて、その実自分の都合の良いように解釈しようとしている。それが一番気に食わないんだよ」

 それは正通という人間に対する大きな侮辱だ。

「……そうね。そうかもしれないわね」

 俺の言葉に納得したらしく、娘は呟いた。その表情は娘というにはあまりに大人びた憂いを含んでいるようで、普段の顔つきとのあまりの違いに、なおも投げかけようと思っていた皮肉が口の中にひっついて出てこなくなってしまった。

「今日も良い勉強をさせてもらったわ。物名歌……うん、覚えた。また来るから、次も教材を用意していてね」

 前の一瞬の表情がまるで嘘であったかのように、今度は何の曇りもない笑顔であっけらかんとして言う。俺はまたもや面食らって、

「もう来るなよ」

 とだけ返すのが精いっぱいだった。

 知らないというのなら、俺もこの娘のことを何一つ分かってはいないのだ。

 娘は俺の返答など聞こえないふりをして無視すると、じゃあねと手を振って庭から出ていく。おもと丸も渋い顔をしながら黙ってその後に従う。俺はそれを追いかけて簀の子まで出て、

「二度と来るなよ! 絶対だぞ!」

 と言いやったが、娘は袖をひらひらと打ち振るばかりで、はかばかしい返事など返ってこなかったのであった。

 馬鹿らしい。

 どうして俺があんな娘のことを知らないからといって、ほのかな罪悪感に苛まれなくてはならない。そもそも上流のお姫様が俺の元など訪ねてくる方がおかしいのだ。

 むしゃくしゃして仕方がなかった俺は庭に降りて、娘らの出ていった築地の穴を埋めた。これで少なくとも人の出入りは出来なくなった築地を見て、俺は満足した。着物が汚れたのも気にならなかった。初めからこうしておけば良かったのだ。一仕事終えた俺は、そのまま母屋に帰って寝た。

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