第四章 つらね歌 1


 それから三日ほどの間は清々しい気持ちで過ごした。あの娘たちのこともほとんど脳裏に上らなかった。

 築地の穴がなくなったからといって、あの娘が諦めるとは限らない。その程度のことは分かっていた。無邪気な顔をして意外と強情なあの娘のことだ。それでもこの家を訪ねてくるだろう。しかし、もはや自由に入ることは叶わない。正面から門をたたいてきたとしたら、開けてやらなければ良いだけだ。これでもう不意打ちのような来訪に脅かされることはなくなる。

 正直、ここのところ俗事にかかずらわり過ぎていた。一人心を研ぎ澄まして、禊ぎをする必要がある。そう考えて、久しぶりに自分のためだけの詠作に没頭した。納得のいく作もいくつか出来て、我ながら満足した。やはり俺の生活はこうでなくては。小金稼ぎのために他人の代詠をするなど、高雅な君子の仕事ではない。

 しかし、人間とはままならないもので、翌日台盤所を確認すると、またしてもいつの間にか食料が底を尽きていた。歌を詠んでいる間は気にもならなかったが、一度気にし出すと頭から離れなくなるのが空腹というものだ。

 仕方ない、この前恵慶が持ってきた土産に入っていた反物を市場で交換してもらってくるか。

 などと考えつつ、なおも出かける億劫さにぐずぐずとしていると、表に人の気配がした。様子をうかがうと、正通の声で、

「遅くなって申し訳ありません。代詠のお礼をお持ちしました」

 と言う。

「ちなみに何か食えるものはあるか?」

「ええ。うちの畑で採れた芋や野菜を持ってきました」

 やはり持つべきものは代詠の顧客だ。俺は喜び勇んで戸を開けた。その時、何やら門の外に正通以外の複数人の声がしたのだが、空腹感の方が優先されて、特に気にも留めずに開けてしまった。直後、それをひどく悔やむことになる。

 門の外には正通の他に、恵慶と順がいた。それは百歩譲ってまだ分かる。正通は順の弟子だからだ。だが、それに加えて、例の娘とおもと丸までもが混じっていた。

 俺は咄嗟に戸を閉めようとした。が、恵慶の老人とも思えぬ強い力でその反抗は阻止されてしまった。

「そう照れるな。珍しく大勢で押しかけてしまったがのぅ」

「照れてねぇよ。嫌がってるんだよ」

 半ば取っ組み合いになっている俺たちに構わず、後ろから順が涼しい顔で口を開いた。

「この前、探字の和歌をやろうと誘っておいて出来なかったからな。どうせなら人数は多い方が良いかと思って恵慶と連れ立ってきたところ、道すがら正通と出くわしたのだ」

「事情は彼から聞いたぞ。実は繊細なお主のことだから内心気に病んでおったかもしれんが、気にすることはないぞ。此度のことは全て重之の自業自得じゃ」

「はい。私もあれから落ち着いて考えてみて、やはり真実を明らかにしていただいて良かったと思いました。もし何も分からぬまま彼女と音信が途絶えていたら、ずっと気にかかって踏ん切りもつかなかったでしょう」

 そう言う正通は憑き物の落ちたような晴れやかな表情をしていた。それは自分の行いを肯定したい俺の欲目が見せた思い込みではなかったと思う。

 そうか、それならば、まぁなんだ、良かった。

 けれど、そこに娘どもが混じっているのは別の話だ。

「それで、何でそいつらまでいるんだよ」

「入れてあげねばかわいそうじゃろう。途方に暮れた様子で家の周りをさまよっておったぞ」

 恵慶の言葉に力を得たらしく、娘は開口一番俺への非難を口にした。

「好忠、どうして築地の穴をふさいでしまったの? 好きな時に入れなくなっちゃったじゃない」

 それが理由に決まっているだろ。と思ったが、言葉にしたところで通じなさそうなので黙っていた。すかさず、おもと丸も続けざまに言う。

「不敬だろう。折角姫が師匠にしてくださると仰せなのだから、もっと気軽に入れるように築地など全て取り壊すべきだ」

 師匠の立場の方が下なのかよ。

 俺が苦い顔で黙殺を続けていると、順がとりなすように口を挟んだ。

「まぁもうお互いまんざら知らない仲というわけでもないのだから、そう邪険にすることもないだろう。正通、お前も探字の和歌に参加していくか?」

 すると、正通は首を横に振った。

「いえ、母が帰りを待っていますし、勉学に励もうと決めたばかりですから、私はこれで失礼させていただきます。皆さんはぜひ楽しんでいかれてください。曾丹殿、本当にありがとうございました」

 そう言って、正通は振り返り振り返り、手を振って帰っていった。

 俺の手が正通から受け取った笈でふさがったのを良いことに、恵慶はすかさず戸を開け放った。

「彼もああ言っていたことだし、わしらだけでも楽しむとするかのう」

 何やら正通が帰ったことで、なし崩し的に他全員を家に上げるのが決定したかのような口振りだった。俺がなおも抵抗しようとすると、順が肩をたたく。

「弟子をとるのも良いものだぞ。先の正通のように一回り成長した姿を見るのは刺激になる。私なんぞ姫を見ていたお陰で新しい物語まで考えついたくらいだ」

「物語? 順様は物語までお書きになるのですか?」

 娘が目を輝かせるので、順は自慢げに俺を押しのけた。

「ええ。詳しくは中で話しましょう。さぁ、どうぞ」

 言いたいことは山ほどあったが、俺もしまいには面倒になってきてしまった。何を言ったところでこいつらが聞く耳を持つはずがなく、抗えば抗うだけ、俺一人疲弊する結果になる。ならば、探字の和歌でも何でも、さっさと済ませて帰らせた方が得だ。

 こんなやつらに好き放題されていることへの疑問は尽きないながらも、しぶしぶ母屋へ上がるのを許したのだった。


「悪いが、先に飯を食わせてもらうぞ。腹が減って仕方ないんだ」

 すっかりわが物顔でそれぞれの定位置に座る連中に構わず、俺は台盤所へ急いだ。

 早速もらったばかりの芋を茹でて、皮ごと貪り食う。それでようやく腹の虫が落ち着いた。それから座敷に戻ってみると、談笑しているばかりで一向に探字の和歌などやっている様子がない。

「どうしたんだよ。俺に構わずやっとけよ」

 そう言うと、順が首を横に振った。

「そうはいかない。前回は曾丹の『あ』で止まっていただろう。そこから再開だ」

 何であんなにべろんべろんに酔っぱらっていた癖に、そういう細かいことだけはしっかりと覚えてやがるんだ。

 内心この前の『あ』という厄介なお題から免れてほっとしていた俺は自然苦い表情になるが、他の者はそんなことを斟酌する素振りもなく、雑談を続けた。

「それでどんな物語をお書きになるつもりなの?」

「曾丹と貴女の不釣り合いな様子を見ているうちに着想が湧いてきましてね。まず、極貧の竹取が登場するのです。この男はそれまでの生涯で何一つ幸福なこともなく、ただ竹を切って生活の資としてきた哀れな人間なのですが……」

 何で俺の方を見ながら言うんだ。

「偶然光る竹を見つけて、その節の中にいた、小さな、玉のように美しい姫を拾うのです」

「いや、小さすぎるだろ」

 思わず口を挟むと、即座に娘に噛みつかれた。

「物語だから良いの! 好忠は早く歌を詠んで!」

 ぐうの音も出ない。順は微笑して話を続けた。

「当然普通の姫ではありませんから数か月のうちにみるみる成長して、世にもまれなる美人になる。竹取もそれと比例するかのように裕福になる。そんな噂を聞きつけて、都で名うての貴公子たちが求婚にやってきます。ところが、姫は心持ちも常人とは異なっているので、どれだけ世間にもてはやされている男たちから求婚されても、決してなびかない。そうして、誰もが手ひどく袖にされていくのです。学もない癖に藤原氏というだけでふんぞり返っている何某や誰某なんかもそれはもう無残に振られていきます」

「順、黒い部分が出とる、出とるぞ」

 恵慶に注意されて、順は慌てて咳払いをした。

「おほん、失礼。と、まぁざっとそのような話で、その後姫がどうなっていくのかというのは、完成してからのお楽しみとしておきましょう」

「すごく面白そう。それに、そんな美しい姫の話を、私を見て思いつかれたというのはとても光栄だわ」

「姫ならば、それも当然でしょう」

 手を合わせて喜ぶ娘の隣で、おもと丸が平然と頷いている。

 俺としては不本意なことこの上ないのだが。

 そんなことを思って一座を見渡していると、じろりと順から視線を向けられた。

「それで? 曾丹、いい加減出来たのか。皆、時間をつぶして待っているんだぞ」

 まさか俺のために時間を与えてくれていたのだとは夢にも思わなかった。というか、どうして突然押しかけてきた連中にこうも高圧的にあしらわれなければならないのだろうか。

だが、実際、猶予を与えられたお陰で歌を思いついてはいたので、このお遊びをさっさと終わらせることを優先した。春の田の歌を詠んで、最後は蛙(あ)の字で締めくくってやった。

「私の教えた畦の字から発想が離れていないような気もするが、まぁ良いか」

 順はまだ何かぐちぐち言っていたが、懐から袋を取り出すと、恵慶の方に向き直った。恵慶は『き』を引き、特段悩むこともなく詠みおおせた。

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