第三章 かねてこそいへ 3


 私が彼女に出会ったのは丁度一年ほど前の、十月のことでした。

 私はいつも通り大学寮での勉学を終え、帰宅する途上にありました。雲一つない夜空に、満月に少し欠けた大きな月が煌々と輝いていました。普段の私ならそんなことも気に留めず、老いた母の待つ家へ一目散に帰っていたと思います。

 ですが、その日は苦心して詠んだ詩を酷評され、朋輩からは堅物すぎて遊び心に欠けるから詩にも情趣がないのだと言われましたので、胸のうちが穏やかならず、それならいっそ月に誘われるまま浮かれ歩いてやろう、それくらいの風情は私にも解することが出来るとにわかに思い立ちました。それで何処に行くというあてもないままに、家とは別の方向の小路へと踏み入っていったのです。

 その小路は人の住む気配とてなく、道に面した柴垣から伸びに伸びた八重むぐらが顔をのぞかせているような荒れ家ばかりが立ち並んでいました。そんな道を月の光だけを頼りに歩いていくというのは、哀れを通り越して一種もの凄い感じがしました。けれど、そこで引き返すというのも怖気づいたと自分で認めるようで業腹でしたから、わざと大股でずんずん奥へと踏み入っていったのです。

すると、途中で地を踏みしめる自分の足音が急に変わったことに気づきました。足元に目を遣ると、月明かりに薄っすらと、道一面黄色く色づいた梧桐の葉が散り敷いているのが分かりました。振り仰げば、一つの家の前庭から梧桐の大木が道を覆うようにして伸びています。

ははぁ、この木から降ってきたものだなと納得すると同時に、その家だけは軒に灯りを点しているのが門の隙間から見えました。人の気配があったことが嬉しくて、ついついその家に向かって、

「閑かに梧桐の黄葉を踏んで行く」

 と白氏文集の一節を歌いかけておりました。

 当然返事など期待しておりません。

 月光に浮かび上がる梧桐のつややかな枝ぶりを眺めた後、さらに道の奥へと歩み去ろうとすると、突然家の門が開き、燭を掲げた童女が駆け寄ってきたのです。そして、主人からお渡しするように仰せつかって参りましたといって、扇の上に梧桐の葉を一枚載せて差し出しました。

驚きつつ、それを受け取ると、梧桐の葉に女の手跡で、秋の庭は掃わずと書き添えてありました。私が歌ったものと同じ詩の一節です。こんなところに白氏文集を知っている人間、しかも女がいようとは夢にも思いかけぬことでした。俄然、その家の女主人に興味が湧いた私は女の童に案内を頼みました。秋の月にあくがれいでて、寂しさを慰めがたくしているのです、と。

すると、女主人も同じような気持ちで月を眺めていたらしく、私を簀の子まで招き入れてくれました。中に入って改めて眺めると、前栽や庭の面は荒れてはいましたが、植えられている草花には主の心遣いが感じられました。そこで酒を勧められ、女主人に琴の音を聞かせてもらい、歌など詠み交わしているうちにお互い心惹かれるところがあり、有り体に言えば一夜を共にしたのです。

何といっても卑しい界隈に住む女ですから、いくら学識やたしなみがあったとしても、大して容貌は優れていないだろうと高をくくっていたのですが、額、眉付きなども整っていて美しく、髪も豊かで品がある様子なのです。性格もとげがなく、おいらかで素直で知れば知るほど可愛いらしく思われました。

そうなると、女の素性が気になってくるところですが、私はあえて尋ねようとはしませんでしたし、女も語ろうとはしませんでした。名家の生まれでありながら不幸な運命で落魄した姫であろうかとか、殿上人が人知れず隠している妻であろうかとか想像はあれこれしましたが、ついに本当のことは追及しなかったのです。というのも、その正体が分からないというところが、私にとっては汲めども尽きぬ魅力の源泉となっていたからでした。女もそれと分かってわざと何も打ち明けなかったのでしょう。

そうして、私は月夜に偶然出会った謎めいた女の元に一年間通い続けました。心のうちでは梧桐の女とだけ呼んでいました。


正通がそこまで語り終えると、黙って聞いていた娘が夢見るようにため息を吐いた。

「素敵ね。まるで物語みたい」

正通は照れた様子で頭をかいた。

「そう言われると恥ずかしいですが、そうですね、私たちもそうした雰囲気を楽しんでいたのかもしれません」

 一方の俺は長々とのろけ話を聞かされているだけな気がして、ちっとも面白くなかった。

「それで? 何か問題が起こったからわざわざ歌の代作を頼もうと思ったんだろ。そこを話せよ」

 そう急かすと、正通は悲し気に眉根を寄せて頷いた。

「先月のことです。急に女の態度が冷たくなったかと思うと、もうお会いできませんと切り出されたのです」

「何か知らずに機嫌を損ねるようなことでもしたんじゃないのか」

「そうかと思い、自分でも反省してみたのですが、少しも思い当たる節がないのです。一年も通い続けていれば、お互いに不機嫌なまま別れる朝もないことはありませんでしたが、その時だって長く尾を引いたこととてなかったのです。それがあんな風に取りつく島もない態度をとるなんて……」

 正通は思い出しても胸が痛むのか、慌てて袖で目尻をぬぐった。それに対して皮肉めいた言葉を投げかけたのはおもと丸であった。

「他に好きな男が出来だだけなんじゃないですか?」

「ちょっと、おもと丸」

 娘が制しても、おもと丸の憎々し気な言葉は止まらなかった。

「女なんて皆そんなものですよ。好きな間は良い顔をしておしとやかに振舞っているかもしれませんが、別の男の方が良くなれば、それまでの言葉も全部忘れてあっさり乗り換えてしまうものです」

「ごめんなさい、この子、ちょっと女嫌いなの」

「勿論、姫様だけは別ですよ!」

 俺にしてみれば、おもと丸の女嫌いも、正通自身の認識にも大して興味はなかった。問題は不和の原因が分からぬことで、これでは詫びの入れようもない。

「そんな状態でどうしろって言うんだ。代作をするにしても、何のとっかかりもないじゃねぇか」

 俺が露骨に不満をもらすと、今度は重之がわかっとらんなぁとでも言いたげに頭を振るのだった。

「理由がはっきりしているんだったら、わざわざ見ず知らずの他人に自分の恥を明かしてまで代作なんて頼むかよ。それが分からないから、一読しただけで女が夢中になるような傑作を詠んでほしいってことなんだよ」

 そんな虫の良い、魔法みたいな歌があるか。俺の呆れ顔を見て取って、重之は両手を広げた。

「そりゃぁ、そんな歌は俺には詠めん。俺はどうしても相手を笑わそうとしちまうからな。俺の歌を贈ったが最後、怒っている女をおちょくっていると思われて、火に油を注ぐ結果になるだろう。だが、自他ともに認める天才、曾根好忠なら違うだろう? どんな無理難題でも、周りがはっとするような歌を詠んでしまうのが、お前って男だろうがよ」

「順先生もおっしゃってました。まだ世に知られてはいないが、間違いなく曾根好忠は当代きっての歌の名手に数えられる男だと。そんなあなただからこそ、ぜひともお願いしたいのです」

 どいつもこいつもここぞとばかりに見え透いたお世辞を使いやがって。

 だが、

「……やってやる」

「やるんだ」

「簡単な男ですね」

 外野の小娘どもがうるさいが、釈明するのも面倒なので無視する。俺自身が分かっていればいいのだ。おだてられたからやる気になったわけではない。難題を投げかけられたからといって、そこから逃げては、逃げたという負い目を一生背負い続けることになる。それは、曾根好忠という男の沽券にかかわる問題だ。

「ちょっと考えるから、お前らは静かにしてろ」

 主に娘たちに向かってそう言って、余計なものが視界に入らないよう庭に面した縁まで出た。そして目を開くともなく開いて、自分の中に沈潜していった。

 仲違いの原因が分からない以上、それを踏まえた内容は詠めない。万が一正通の方に過失があってそれを忘れているだけだとしたら、互いの不和に触れることはかえって女の虫の居所を悪くする結果に終わる可能性がある。今、確実に分かっているのは、女が頑なに男と会おうとしないということだけ。それについて悲しみを訴える内容であれば、女もよもや怒りはしないだろう。同情して態度が軟化することもあるかもしれない。そう方針を立てると、今度は言葉を絞り込んでいった……。


「出来たぞ」

 俺は膝を打って、背後の面々に向き直った。

「もう出来たんですか」

「流石に速いな」

 正通と重之は驚いた顔を見せるが、速さだけ認められてもしょうがない。肝心の歌が納得されるものでなければ。

 俺はすでに礼を言おうとする依頼人を制して、出来上がったばかりの一首を口ずさんだ。


「淀なるやみづの森もる下露に深きなげきは生ひそひにけり」


 一瞬の沈黙が一座を包む。この時ばかりは流石の俺も緊張する。いくら自分に手ごたえがあっても、他人の評価を伴わない場合は往々にしてあるからだ。

 ややあって、重之がにやりと笑うのが目に入った。

「やりおるな。美豆の森に見ずをかけて、もる下露で袖にあまる涙を暗示しつつ、森とも露とも縁語関係にあるなげ木、嘆きを取り添えたというわけか」

 正通も何度か繰り返し俺の一首をうち誦んじた後、感銘を受けたように顔を上げた。

「ありがとうございます! この歌ならきっと彼女も私の悲しみを分かってくれると思います」

「ほらね」

 と言ったのは小娘だ。

「やっぱり好忠は私の先生にふさわしいでしょう?」

「……確かに歌が上手いのは認めざるを得ませんが、姫の先生にはそれなりの人品骨柄というものが必要です」

 先生ではないと何度言えば分かるんだと思ったが、今は文句も言わないでおいてやろうという気になった。無事一仕事しおおせたという満足感が全てに勝っていたからだ。

「お礼の品は明日にでもすぐお届けします。本当にありがとうございました」

 正通は幾度も頭を下げ、重之と連れ立って帰っていった。娘らも、

「今日はいい勉強になったわ」

 などと小癪なことを言って、この日は駄々をこねるでもなく素直に家を出て行った。後に一人残された俺は、自分でも珍しく善行を積んだなと悦に浸りながら、良い気分のまま床に就いた。

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