第二章 ははそ原 2
庭先で騒がしく鳴く雀の声に起こされて、二日酔いで重たい頭をどうにかもたげ、座敷を見渡すと、恵慶も順も大いびきをかいて寝ているが、娘の姿は跡形もなく消えていた。
俺は幸せそうに寝ている恵慶の額をぴしゃりとはたいた。
「おい、おい、爺さん。あの娘はどうした?」
「うん……?」
恵慶は煩わしそうに目を覚ますと、俺同様周りを見回して、首を傾げた。
「おや、おらんのう。さっきまでは確かにおったんじゃが」
「そのさっきって何時だよ」
「わしらが飲んで話していた時」
「それじゃあ夜中じゃねぇか。もうとっくに日が昇ってんだよ」
すると、その口論を聞きつけたのか、にわかに順が体を起こした。
「曾丹が送っていくという話ではなかったか?」
「それは俺が飲み始める前に言ったことだろ。何時の話をしてんだよ」
「昨日は順が一番先に酔いつぶれておったからのう。知らなくとも無理ないわい」
やっと日本語がまともに話せるようになったと思っても、ちっとも役に立たないな、この学者は。
「まぁ、曾丹が送っていこうと申し出たのは事実なんじゃから、これであの子に何かあれば、曾丹の責任じゃのう」
理不尽だと反駁したかったが、一方で恵慶の言い分も筋が通っていると認めざるを得なかった。
「ちくしょう」
俺は沓をつっかけて表へ出た。
しかし、右を向けども、左を向けども、道にはそれらしい足跡も人の気配も残ってはいなかった。
「そう心配するなて」
戻った俺に、廂まで這い出して来た恵慶は言った。
「あの子は只者ではなさそうじゃったぞ」
「だから、気懸かりなんじゃねぇか」
その時、俺の脳裏には良家の子女をかどわかした罪で打ち首と言った恵慶の言葉が思い出されていた。
ところが、当の恵慶は違う違うと笑って首を振った。
「そうした身分の話ではないぞ。あの子は見知らぬ男三人に顔を見られても、少しも臆した様子はなかった。あれだけの胆力は誰もが持ち合わせているものではない。あの子が一人で帰れると言ったんじゃから、確かに一人で帰ったんじゃろう」
どうだろうか。単に世間を知らないだけなんじゃないのか。
「仁和寺の場所も知らなかったような娘だぞ」
言いつつ、それ以上は俺だって、どうすることが出来るわけでもなかった。
それから恵慶と順は連れ立って帰っていった。それを見送って、俺は普通に二度寝をした。
素性どころか名前も知らない娘のことをいつまでも気にかけているほどお人よしじゃない。自分で何も告げずに出て行ったのだから、その後何に巻き込まれようとあいつ自身の責任だろう。
そうして、検非違使が俺を引っ立てに来るということもなく、いつしか二日が過ぎた。
時間が経つにつれて、あんな娘がいたことすら現実ではなかったような気がしてきた。狐に化かされて悪い夢でも見たのではなかったか。
そんな昼下がり、庭の方からがさごそと獣が茂みを分ける時のような音が聞こえてきた。何か予感があったわけでもないが、俺はすぐさま立ち上がり、庭の面を確認した。
すると、あの娘が丁度築地の穴から顔を出したところだった。俺を見つけると無邪気に目を輝かせて言う。
「あっ! 好忠。また来たわよ」
内心無事であったかと安堵しないでもなかったが、こちらの気も知らず娘が能天気な顔をしているのも癪に障り、顔をしかめた。
「また来たじゃねぇよ。まだ懲りていなかったのか。お前みたいな娘がな、こんな柄の悪い界隈をうろついていたら、人買いに捕まって売り飛ばされたっておかしくないんだぞ」
「でも好忠はそんなことしないでしょ?」
少しも脅しにひるむ様子もなく、娘はこちらへ近づいてくると、懐中から紙の束を取り出して差し出すのであった。
「……何だよ、これ」
受け取って中に目を通すと、娘の自作したらしい歌がずらずらと書き付けてあった。
「好忠、私を歌の弟子にしてくれるって言ったでしょ」
この俺が!? まさかそんな血迷ったことを口走ったとでも言うのか。
酒が入ってからのあの日の記憶は確かにないが、そんなことを口が裂けても俺が言うとは思えなかった。
絶句していると、沈黙にいたたまれなくなったのか、娘は白状した。
「……とは言っていないけど」
「言ってないんじゃねえか」
「だけど、俺があっと驚くような歌を詠めたら弟子にしてやらないこともないとは言ったもん!」
それは、確かに言うかもしれない。あの日、俺は会心の作が詠めて完全に調子に乗っていた。後先考えず無責任な冗談を言うということはあり得る。
だが、そんな口約束だけなら、今からどうとでも取り返しが利くというものだ。俺は薄目で紙の内容を確認するふりをしつつ、さも残念そうにかぶりを振った。
「駄目だな、こんな出来ではとてもじゃないが弟子にはしてやれん」
「なら、また今度新しいのを詠んでくるわね」
こいつは敵なしか? 俺がどう答えようとも、初めから通い続ける心づもりだっただろう。
「だから、今回のどこが悪かったか教えてよ」
畳かけてくる娘に、俺はたじろがざるを得なかった。
あれだけの胆力を持ち合わせている者はそういない。
恵慶の言葉が呪いのように脳裏に蘇ってきた。
もしかすると、俺はとんでもなく厄介な相手に目を付けられてしまったのではないか?
そんな俺の内心を知ってか知らずか、娘は邪気のない顔でにこにこと笑っているのだった。
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