第二章 ははそ原 1


「で、曾丹なんぞの陋屋には似つかわしくないその可憐な蝶々は、どこぞより迷い込んできたんじゃな?」

 座敷に戻るなり、恵慶が尋ねてきた。

「坊主の癖に言い方が気色悪いんだよ、この助平爺」

 しかし、当の娘は気にした素振りもなく、素直に答えた。

「仁和寺に行きたかったのだけれど、道を間違えたみたいで、好忠に助けてもらったの」

 間違いは言っていないが、何も情報が付け加わっていない。困惑した様子の恵慶は俺を片隅へと招き寄せた。

「どういうことじゃ、曾丹。あんな上臈の姫君などどこで見つけてきた」

「そこの塀の裏でだよ。それよりも上臈の姫だって?」

 あいつが? せいぜい上臈に仕える女の童か何かではないのか。

 すると、恵慶に大きなため息を吐かれた。

「お主の目はそこらの木の洞よりも節穴じゃから分からなくとも無理なかろうが、あの娘の風情をよく見てみよ。あのおいらかな佇まい。まるで春の曙に匂い立つ樺桜のごとくではないか。そんじょそこらの貴族の姫ではあるまい。そんな娘が伴も連れずに一人歩きなど、明らかに訳ありじゃぞ」

 そう言われて見てみると、衣被きを外した娘は十を少し越したくらいであろうか。裳着もまだな様子ではあったが、その豊かな黒髪は腰の辺りまで伸び、肌も透き通らんばかりに白く、美しい子供であるのに違いなかった。確かに一人で外をうろついているというのは異常か。

 ところが、そんなことを言いつつ、恵慶は酔っ払い相応の無責任さで細かいことはどうでも良くなったらしく、次にはこう言い放った。

「まぁ、万が一、貴族の子女をかどわかした罪に問われるとしても、曾丹が死罪になるだけじゃから、良いか」

「良くねぇよ」

 急に梯子を外されると途端に心配になるのが人情というものだ。

「おい、お前、もう帰れ。道が分からないなら、送って行ってやるから。流石に自分の屋敷の住所くらいは分かるだろ」

 娘に向かってそう言うと、明らかに不服そうにこちらを見るのだった。

「まだ来たばっかりなのに。それに仁和寺へは道を知らなかったから行けなかったけれど、自分の歩いた道は覚えているから一人でだって帰れるわ」

 こいつ、人の気も知らないで。

 すると、恵慶はすぐさま娘に加勢した。

「そうじゃ、そうじゃ。本当に悪事を働いているわけでもなし、そう急いで追い返さなくっても良かろう」

「あんた、どっちの味方なんだよ」

「そんなの姫の味方に決まっておろう。申し訳ありませぬ、姫。ここの家主は不調法者で、すぐ几帳をお出しするという気も回りませぬのじゃ。おい、曾丹。衣架でも良い。姿を隠すものをお出ししろ」

「そんな普段使わないもの、持ち合わせてねぇよ」

「はぁ、これだから貧乏人は。姫、申し訳ありませぬ」

「大丈夫よ。こういうのも新鮮で面白いもの」

「姫はなんとお優しいのか。曾丹、姫のご厚意に感謝せねばならんぞ」

 すっかり一端の従者面をしている。

 こういう時は唯一の常識人たる順だけが頼りなのだが。

「獲落たる危牖壊宇(きようかいう) 秋にして秋の声有り」

 今日はとことん役に立ちそうにない。

 というか、今、壊宇って他人の家を壊れた家呼ばわりしやがったな。

 俺は呆れて恵慶に向き直った。

「順の先生は一体どうしちまったんだよ。何だって日本語も話せなくなるくらい泥酔しちまってるんだ」

 恵慶は気の毒そうに順を見遣った。

「憂さが溜まっておったんじゃろう。なにせ、今年も文章博士になれなかったんじゃからのう」

 ……なるほど。少し合点がいった。

 世に梨壺の五人などと評されて、俺たちも先生、先生と呼んではいるが、実のところ、身分は文章生、要するにまだ学生に過ぎないのである。資格は十分にあるだろうに、源氏という出自が災いしてか、ずっと昇進を滞り続けていた。

 四十を過ぎても学生から脱却出来ずにいるというのは、俺も人のことを言えた義理ではないが、たまには飲み明かしたくなるのも無理なからぬところかもしれなかった。

「……生計擲ち来って詩これ業なり 家園忘却して酒を郷となす」

 悄然として吟じる順の肩を恵慶は慰めるようにたたいた。

「なりわいを打ちやってなどと、そう捨て鉢になってはいかんぞ。実力は認められておるのだから、いずれは時も巡ってこよう」

 傷をなめ合う情けないおっさんたちの図をきょとんと眺めていた娘がそこでにわかに膝を打った。

「順って、もしかしてあの源順様? すごい博学の人だって、私も聞いたことがあるわ。だからなのね。さっきからおっしゃっていることの半分も理解出来なかったもの」

 すると現金なもので、にわかに上機嫌に口髭をいじりだした。

 そういう人柄に重みのないところが博士になれない一番の原因なんじゃないか?

 呆れていると、娘が順と俺とをしきりに見比べているのが目についた。何やら失礼なことを考えられている気がする。

「何だよ」

 尋ねると、娘はためらいがちにこう言った。

「そんな高名な方と好忠が、その、お友達なの?」

 爆笑したのは恵慶だった。

「あっはっは、確かに傍目から見れば、不釣り合いかもしれんのう。ですが、こんな男にもたった一つ取柄がありまして、それをわしも順も認めておるのですよ。曾丹は歌の名手なのです」

「好忠が歌を……? それと、さっきから呼んでる曾丹って?」

「単なるあだ名です。曾根丹後掾だから縮めて曾丹後と呼んでいたのが、さらに縮まって曾丹になった」

「このまま、んまで抜け落ちて、何時そた呼ばわりに変わるか知れたもんじゃねぇよ」

 ふてくされて吐き捨てると、恵慶はからかうような視線を俺に向けた。

「ほれ、曾丹。姫がお主の腕前を疑っておられるぞ。外目には物のあはれなど何一つ解しそうな言動をしておらんのだから、無理もない。ここは一つ、びしっと実力を見せて差し上げよ」

 酔っているのを良いことに無茶苦茶なことを言いやがる。おそらくは期待させていた傑作を俺が一つも作っていなかったことに対する当てつけでもあるのだろう。

「……良いぜ。受けて立ってやる」

 当意即妙に歌を返してこそ、一流の歌人というもの。いい加減俺も好き放題言われ続けて、むしゃくしゃしていたところだ。ここで一発かまして、目に物を見せてやる。

 実を申せば、歌の種はすでに掴みかけていた。

 楠木に登った時だった。いつもとは違う景色に、さやさやと風になびく葉擦れの音。清冽な秋の気配が胸のうちに忍び込んでくるのを感じていた。

 そして、落日の赤。

 これだけの題材があって、歌にならない方がおかしい。つかの間、俺は周囲にいる誰の存在も忘れた。思考に入り込み、ふさわしい言葉を選び出した。


「入日さす佐保の山辺のははそ原くもらぬ雨と木の葉降りつつ」


 恵慶と順の先生が同時にほうとため息を吐くのが聞こえた。娘も息をのみ、呟いた。

「すごい……何て言って良いか分からないけれど、すごく綺麗ね」

「さ、さ、そとさ行の音を連ねることで全体の調べを作ったわけか。しかも、その音が雨と聞き違うほどに降りしきる紅葉の積もる音と通いあっておる」

 一度聞いただけで、俺の目論見を全て看破してしまう辺り、流石恵慶というべきか。

 恵慶は満足げに頷くと、用意良く持参していたらしい酒壺を俺の前に置いた。

「これだから、この男は見捨てられんのじゃ。名歌の誕生を祝して、さぁ、飲もう」

「もう十分出来上がっているのに、まだ飲むのかよ……」

 言いつつも、俺自身、自作を口々に褒められて悪い気はせず、差し出された盃を受け取った。そうして、飲んで、飲んで、良い気分となっているうちに、気づけば朝になっていた。

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