第一章 白波 3
俺はそう考えて、万劫の怒りを込めて楠木の枝を激しく揺らした。不意を突かれた男たちの狼狽っぷりはかえって面白いほどだった。
「うわっ、何だ、猿か!?」
「馬鹿言うない。こんなところに猿が出るものか。これはきっと天狗礫だ!」
「何だよ、そりゃ」
「護法様がお怒りなんだよ。大体、こんな時間にたった一人でこんな上玉が歩いている方がおかしかったんだ。きっとこのお方は護法様の化身だ」
「ど、どうすりゃ良いんだ?」
「謝るしかないだろ! 護法様、大変失礼をいたしました。もう二度とこんな不届きな気は起こしません。申し訳ありませんでしたぁ!」
「も、申し訳ありませんでした!」
謝罪の言葉とともに足早に逃げ去っていく気配がした。
盗みたかりをしようというのに、随分肝の小さい奴らがいたものだ。
俺は一仕事終えたような心持で、再び幹にもたれ直した。そのせいで、木の根元に迫っていた人影に気づくのが遅れたのだ。
「あのう」
出し抜けな呼びかけに、俺は目を遣って仰天した。
衣を頭に被いた朽葉色の衵姿の少女が、栗鼠のように無心な瞳でこちらを見上げていたのだった。
「お前、どこから入ってきた!」
思わず大声を上げてしまったが、少女は物怖じした様子もなく、向こうの築地を指さした。
「そこに穴が開いていたから」
だからって、勝手に人の家に入ってくるか、普通?
困惑して言葉に詰まっていると、少女はそんな俺をまじまじと見つめて、感嘆したような声を上げた。
「わぁ、私、天狗って初めてお見かけしましたが、人間そっくりなのですね」
思わず脱力して木から滑り落ちそうになった。
「あのなぁ、状況が分かっているのか? お前は今さっき人買いにかどわかされて、売り飛ばされる直前だったんだぞ」
別にこの娘を助けたくてやったわけではないから、礼は言われずとも構わない。ただ、何一つ理解されていないというのは、それはそれでもやもやする。
すると、娘は両手を口に当てて、
「えっ、そうだったのですか? てっきり私は物乞いの方たちかと。でも、確かにあなたよりは上等な着物を着ていたような気も……」
余計なお世話だ。
「では、天狗様は私を助けてくださったのですね」
「天狗なんかじゃねぇよ。ただの人間だ」
「なら、お名前は何ておっしゃるの?」
「名乗るほどの名前はねぇよ」
「まぁ、かわいそうに。誰からも名前を付けてもらえなかったってこと? 世の中にはそのような方もいるのね」
「曾根丹後掾好忠(そねのたんごのじょうよしただ)だ!」
駄目だ、話していると調子が狂う。こんなやつをまともに相手にしていたら、何時まで経っても名歌など詠むことが出来ない。早々に追い出してしまわないと。
そう考えていたのだが、娘は俺の名を聞いて意外な反応を示した。
「曾根……曾根というとあの物部の?」
これには素直に驚かされた。
確かに曾根氏は古代の物部氏の末流だと、大昔に母から聞かされた覚えがある。しかし、藤原氏に連なることだけが重視されるこのご時世にあって、すでに滅びた物部を祖とすることなど何の役にも立たない。古くからの馴染みであっても、俺が物部の末裔だなんて、誰も知らないのではないだろうか。
そんな知識を持っているとは、呆れるほど無邪気な小娘だと思っていたが、単にそれだけではないのかもしれない。
身なりが良いのは、盗人が目を付けるくらいだ。どこぞの貴族の子女に仕える樋洗童(ひすましわらわ)か何かなのだろうか。
「お前さん、何だってこんなところをうろついている。住んでいる身で言うのもなんだが、お世辞にも柄の良い土地じゃない。誰かに文の使いでも頼まれたのか?」
貴族が人知れず囲っている妾の屋敷で勤めている娘なのかもしれない。
そんな秘密の事情を想像した俺だったが、またしても娘の返答に肩透かしを喰らうこととなった。
「いえ、ちょっと仁和寺の紅葉を見てみたいと思って」
「仁和寺だぁ? それじゃあ、こことは丸きり方向が違うぞ」
俺の屋敷は五条坊門小路と万里小路の交わる一角にあった。仁和寺とは都の対角のようなところに位置する。
「そうなの? それは残念。お父様がせひ一度見ておけとおっしゃっていたから、見てみたかったのだけれど」
まともな事情を勘ぐった俺が馬鹿だった。
「だったら、さっさと帰って、そのお父様とやらにまた連れて行ってもらえば良いだろうよ」
「それは無理だわ。お父様はもう亡くなって久しいもの」
娘は事もなげに言うが、俺はぐっと言葉に詰まった。
悪いことを聞いてしまっただろうか?
父親の後見がない身の辛さは、俺が一番よく知っている。まして女の身ともなれば、経済的な不安や心細さもひとしおであろう。
「あー、その、なんだ……」
悪かったと後に続けようとした時、またもや激しく門をたたく音がして、機を逃した。俺が珍しく殊勝な気持ちになったというのに、誰だ、こんな間の悪く訪ねてきた輩は。
そう思って耳を澄ますと、
「おーい、曾丹やい。おーい」
例の恵慶の呼び声がする。
ついさっき追い出されて、すぐまた舞い戻ってくるとは、一体どんな図太い神経をしているのだろうか。
俺が聞こえないふりをしていると、娘が怪訝そうに尋ねてきた。
「好忠、お客さんじゃないの?」
呼び捨てかよ。
だが、そんな細かいことはこの際どうでも良い。
「知らん。俺とは関係のない奴だ」
恵慶に対してなおも腹を据えかねていた俺は、断固として居留守を使い続けるつもりでいた。ところが、ふと目を離した隙に娘が木の下からいなくなっている。嫌な予感がしたが、梯子を巻き上げてしまったのですぐさま追いかけるというわけにもいかない。すると、門の開く音がしたかと思うと、どかどかと足音高く踏み込んでくる気配がした。
「おぅい、曾丹、さっきはすまなかったぁ。事実とはいえ、流石に言い過ぎたぁ」
「好忠なら庭の木の上にいるわ」
「おや、君は?」
「好忠に盗人から助けてもらったの」
「そうかぁ、あいつはそういうことが出来る奴なんじゃよ」
もう少し疑問に思えよと内心突っ込まざるを得なかったが、庭に躍り出てきた恵慶の姿を見て、謎は氷解した。恵慶の顔は照らし出す夕日よりも真っ赤に染まって、脂汗でつやつやと輝いていた。要するに完全に出来上がっていたのだ。
「すまなかったぁ、曾丹、どこにいる?」
「うるせぇよ。そんな大声じゃあ近所中に聞こえちまうだろうが」
「おお、そこにおったのか、曾丹。悪かったなぁ、お主がそんななりをして、心は人一倍繊細だということを忘れておった」
どこまでいっても一言時計なんだよなぁ。
呆れていると、娘と連れ立って庭に降りてくるもう一つの人影があった。
参内した帰りなのだろう。冠に黒い袍を身にまとい、髭を蓄えた顔つきなどは非常に考え深そうに見える。それもそのはずだ。当世並びなき大学者である源順その人だったのだから。
俺は地獄に仏を見つけたような思いで呼びかけた。
「順の先生! 頼むから恵慶を落ち着かせてやってくれ」
「……てん」
「あん? 何だって?」
「銀河澄朗たり素秋の天」
駄目だ、急に漢詩を朗詠し出してしまった。
「まさか、あんたまで酔っぱらっているのか?」
「また林園に白露の円なるを見る」
とても話が通じそうな状態ではない。
坊主はおいおいと泣き、四十がらみの学者は自作の詩を吟じている。その上、俺は木に登っている。そんな混沌とした状況を、娘が一人興味深そうな瞳でまじまじと見つめていた。
事態の収拾を図るためにも、俺は折角たどり着いた高い次元から、渋々ながら地表へと降り立つ他なかった。
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