第一章 白波 2
「ほいほい、お主の言い分なんぞ初めから聞いてはおらんがの。それよりも、その後の進捗はどうじゃ」
「進捗?」
意味が分からず聞き返すと、恵慶は大袈裟な身振りで額を手で押さえた。
「その口振りだとお主、さては忘れておったな? 先月、順(したごう)も交えて酒を酌み交わした時に大口を叩いておったではないか」
確かに先月、恵慶、源順(みなもとのしたごう)と三人で飲み明かしたことはあった。しかし、恵慶の言う進捗には心当たりはない。そんな俺にもっとよく思い返してみよと促しつつ、恵慶は言葉を続けた。
「ほれ、今年の三月に催された内裏歌合の話になったじゃろうが」
そう言われて、だんだんと思い出してきた。
内裏歌合とは、歌に関心の深い村上天皇が催した、古今未曾有と呼ばれるほどの盛大な歌合だった。調度品や衣装の細部にまで歌にまつわる工夫が凝らされ、参加する女房や歌を詠みあげる講師まで選りすぐりの人材が集められた。
当然、歌を詠作する歌人も当代随一と目される人間が選ばれたわけだが、俺たち三人のうちでそこに含まれていたのは源順だけだったのだ。
俺としても順が選ばれたことに異論を挟みたいわけではない。弱冠二十代にして倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)という辞典を完成させ、村上天皇の指示で万葉集の解読と後撰和歌集の編纂作業を行った梨壺(なしつぼ)の五人の一人でもある。あの男の学才が評価されるのは、至極当然のことだ。
それはそれとして、何故俺が選ばれていないのか、というところに最大にして見過ごし難い疑問があった。
順以下梨壺の五人のうち、四人までが選ばれたのは分かる。村上天皇との親しさという点からしてもやむを得ないだろう。
そこから紀時文(きのときぶみ)だけが外されているのも分かる。あれは、学才はあれど実作は得意ではない、典型的な学者肌の男だからだ。
しかし、それ以外に選ばれた面々を見ると、随分お粗末な人選だと思わざるを得ない。特に右方などは歌人が五人しか集まらず、合計二十首のうち、平兼盛が一人で十一首も担当しているのだ。そんなことなら、俺さえ呼んでおけば、ちょちょいのちょいで名歌を詠んで、左方の十勝五敗五引き分けなどという一方的な戦績にはさせなかったものを。
「お主を召したところで、そもそもそんな晴れの場に着ていく着物すらないではないか。いつもの継ぎ接ぎだらけの狩衣で参内するつもりか?」
酒の席でも恵慶からそう水を差された。それでむきになった俺はこう言い返したのだった。
「着物だとか調度だとか、そんな上っ面ばかり飾り立てているから駄目なんだ。本当に肝心なのは名歌を生み出せたかどうかってところだろう。今に見てろ。宮中でお偉方にぺこぺこするので忙しい連中には逆立ちしても思いつかないような、新しい歌を詠んでやるから」
自分自身の言葉を思い出し、俺が渋い表情になったのを察して、恵慶は白けた目を向けた。
「……まぁ、所詮酒の席の言葉じゃからの。売り言葉に買い言葉で考えなしに物を言うこともあろう。だが、お主なら本当に何か凄いことをするのではないかと期待しておったんじゃぞ。その様子を見るに、とんだ期待外れだったようだがの」
心底失望した様子の口振りが屈辱的だった。俺は悪あがきの逃げ口上で、どうにかお茶を濁そうと試みた。
「ま、まだ、構想の途中なんだよ。一か月かそこらでそんな傑作が出来上がるわけないだろう」
そんな心理すら見透かしたように恵慶は口を開いた。
「あのなぁ、曾丹よ。お主の才を買っておるとは言ったが、その才とて何かを生み出さねばないのと一緒じゃ。今のお主は、お主がいつも無才の小人と馬鹿にしている連中と何も変わらんぞ。むしろ彼らの方が糊口をしのぐため必死に額に汗している分、立派とも言える。お主はただ怠惰なだけじゃ」
何が辛いといって、大人になって真剣に諭されることほど悲しいことはない。
あんまり情けなくって仕方のなかった俺は、止むなく逆に憤慨した。
「うるせぇ。お前は俺の父親かよ! 構想の途中だって言ったら途中なんだよ! これから制作に取りかかるところだったんだ! 折角集中力を高めていたのに、お前が余計な横槍を入れるせいで全部途切れちまった!」
そう叫んで、這う這うの体で逃げ出す恵慶を追い返した。
そこまでは良かったものの、なおも気が収まらなかった。目を遣れば恵慶の残していった手土産が嫌でも視界に入るし、あの生臭坊主とともに流れ込んできた俗世の汚れた空気が我が家のそこかしこに蔓延している感じがしてならなかった。
こんなところにはとても居られん。そう思って逃げ込んだ庭先で目に付いたのが、築地の傍に植わっていた楠木の古木であった。
樹齢は一体如何ほどのものであろうか。
俺が越してくる以前からここに植えられていたもので、今の今までろくに気にかけたこともなかった。だが、改めて目を遣ると、その貫禄といい、それでいて主張の激しくない佇まいといい、まさに俺にふさわしい高雅さだと感ぜられた。
そこで思いついたのだった。そうだ、この木に登ろう、と。
早速母屋から縄梯子を持ってくると、丁度いい高さで丈夫そうな枝にそれを通した。そして、それを足掛かりに三つ又に分かれた幹のところまで登り、腰かけた。縄梯子を巻き上げて回収してしまうと、我ながら自分の思い付きの完璧さにため息が漏れた。
これでまたいつ何時恵慶のような闖入者が現れたとしても、俺と同じ場所まで登ってくることはできない。深遠な思考にふけっている際に、邪魔者への応対に追われて集中を切らすことは二度とないというわけだ。
俺は旺盛な緑の葉群の中で深く息を吸った。どの木ものべつ幕なしに紅葉していくこの季節にあって、独り緑の葉を保っているというのも好感が持てた。この文字通り高次の場所で呼吸していると、恵慶に汚染された俗の気配が自然と抜けていくようだった。まさに俺のような君子が座すために設けられた玉座ではないか。
こうした場所を自然と見つけ出せてしまうというところが、天才の天才たる所以なのだな。ここで一つ恵慶が仰天するような名歌を考えて、次に奴がやってきた時に、お主の才能を見くびっておった、申し訳ないと土下座させてやろう。
そんなことを考えていた時、築地の向こうからやけに耳障りな男たちの声が聞こえてきた。
「おうおう、お嬢ちゃん。こんな時間にどこへ行こうってぇんだい?」
「ここを通りたければ、その上等な着物を身ぐるみ置いていきな」
絵に描いたような三下の台詞だ。
たちまち俺は不愉快になった。こんな下劣な連中の傍で暮らしていたのかと情けなくなるとともに、名案だと思った樹上生活にけちをつけられた気分になった。騒音による耳への侵入という、当然あるべき可能性を考慮していなかった自分の手落ちが恨めしかった。
しかし、ここまで労を尽くして登ったからには、この場所で意地でも名歌を詠みおおせてみせたかった。両手を耳に当てて、懸命に考えに集中しようとした。
だが、そんな努力を嘲笑わんとするように、低俗な会話は指の間をすり抜けて一層鮮明に滑り込んでくるのであった。
「……着物をお譲りすれば良いのですか?」
男どもに絡まれているのだろう女の声は、小鳥がさえずるような、高く幼さを感じさせるものであった。
「そうさ。そうしたら、俺たちと一緒に良いところへ行こう」
「同じくらい上等なおべべが着られて、うまい飯も食える、この世の極楽みたいなところさ、げへへ」
聞いているうちに、だんだんと腹が立ってきた。
俺は何が嫌いって、この世の中で盗人が一番嫌いなのである。
父親を賊に殺されたことも関係しているかもしれないが、何より自分では何も生み出さず、他人の上前をはねようとするその神経が気に入らない。普段なら誰が誰に襲われようが知ったことではないが、俺の詠作の邪魔をして、自分たちだけうまい汁をすすろうったって、そうはさせてなるものか。
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