第一章 白波 1


 天徳四年(960)、九月十一日の夕つ方、俺は木に登っていた。

 馬鹿と煙は高いところが好きなどと言うが、俺は馬鹿ではない。誰が好き好んで居心地の良い座敷を出て、庭の楠木なんぞに登ったりするものか。あくまで必要に迫られてのことだった。

 事情を一から説明するのであれば、話はこの日の昼頃に遡る。

 俺は世俗の塵を離れた隠者らしく、日が高くなるまで衾を被って夢幻の境に魂を遊ばせていた。俺は世間に用がなく、世間の方でも俺に用はない。お互いに用がない者同士、変にかかわり合って気詰まりな思いをするくらいなら、元々存在しないかのように無視し合うのが洗練された大人の態度と言える。

 つまり、俺は寝坊を貪っていたのではなく、世間様のためにあえて目を覚まさずにいてやったというわけだ。俺のような天才はいたずらに瞳を開いただけで、世の中の小人たちの肝を冷やしてしまうからな。

 ところが、いきなり門をたたいて、その優しい心遣いを無にしようとする輩が現れたのだった。よっぽど無視してやろうかと思ったが、外から聞こえてきた声が無礼極まりなかったので、つい聞き過ごせずに起き上がってしまった。

「おーい、曾丹後(そたんご)、曾丹(そたん)。おらんのかぁ? どうせ暇なのは見え透いておるのだから、居留守など使っても格好は付かんぞ」

「うるさいわ。それが他人の家を急に訪ねてきた人間の言いぐさか!」

「やっぱりおるではないか」

 からからと大口を開ける下品な笑い声。そして、人を人とも思わぬその物言いから、門を開かずとも誰が訪ねてきたのかは分かっていた。

「何時まで経っても口の減らない爺だな。何しに来やがった、恵慶(えぎょう)!」

 門を開けると、案の定、恵慶の、長いこと湯あみもしていないのだろう、塵と垢とで黒ずんだ顔が視界に飛び込んできた。

 その癖、にやにやと笑うその表情には皺がほとんどなく、歯も不気味なほど白く生えそろっている。知り合ってからそれなりの年月が経ったが、一向に実年齢がはっきりとしないのが、この恵慶という胡散臭い坊主なのであった。

 恵慶は俺の問いにわざとらしく立腹した素振りを示した。

「何をしに来たとはご挨拶だのう。お主が餌を失ったきりぎりすのように干からびて死んでおるのではないかと心配して様子を見に来てやったのではないか。この友情が分からんのか。御仏も匙を投げるだろうお主を気にかける人間なぞこの世にどれほどいると思うておる。それを踏まえて、もっと大切に扱ってほしいものだのう」

「へっ、こっちこそ御仏にもこの世にも興味はない。いっそのこと、さっさと地獄に送ってもらいたいものだね。苛烈な環境に身を置いてこそ詩魂は輝く。地獄の有り様をまざまざとこの目で見られたら、よほど優れた歌の種になるに違いないぞ」

 そう言うと、恵慶は呆れ顔になった。

「なんとまあ、不遜な男か。だからこそ面白いのだが、とても世の中に快く受け入れられる性格ではないな」

「いちいち五月蝿いな。説教をしに来たんなら、俺は聞かねぇから、他の奴に当たった方が良いぞ」

「そんなことを言って良いのかのう。折角手土産を持ってきてやったというのに。芋や米なんかもあるぞう」

 実際のところ、我が家の米櫃は一週間ほど前から空になり、蜘蛛がここぞとばかりに巣をかけていた。

 食べ物に釣られたわけでは断じてないが、仕方なく俺は恵慶に家へ上がるよう手招いていた。

「別段困っちゃいないが、わざわざ持って帰るのも手間だろうからな。貰っておいてやるよ」

「ご厚情痛み入るわい」

 恵慶は軒先に運ぶのが重そうなほどぎっしりと詰まった笈をどっかと下ろした。妬むのを通り越して、俺はすっかり驚いてしまった。

「何だってたかが坊主のお前さんが、そんなに羽振りが良いんだよ」

 恵慶はほほほと笑った。

「やっぱり人徳のなせる業かのう。……なぁに、不思議でも何でもない。つい先日、源大納言殿のお宅の歌合に呼ばれての。引き出物を沢山いただいただけのことだわい」

 源大納言高明(みなもとのだいなごんたかあきら)といえば、高位高官を藤原氏が独占している当世にあって、唯一源氏として宮中の要職に就いている人物だ。もとを糺せば皇族の血を引いている源氏ですら職にあぶれる今の世の中で、例外中の例外とも言える。そこには個人の才覚だけでなく、当然藤原氏との姻戚関係などもかかわっているのだが、それは今は横に置いておく。

 ともかくそんな大人物と、目の前のぼろ雑巾のような袈裟をまとった老人とが知り合いだということ自体が、依然として解けない謎でしかなかった。

 そうした疑念が顔に出ていたのだろう。恵慶は飄々として答えた。

「わしの歌才が評価されたんじゃろうなぁ」

「それなら、何で俺が呼ばれない」

「呼ばれたいのか。なら、今度口利きをしてやろうか?」

「嫌だよ。歌合ってのはあれだろ。しかめっ面しい態度で正座して、他人の出来の悪い歌を最後まで我慢して聞いた上に、お追従まで言わなきゃならんのだろ」

 恵慶は心底呆れた様子で深くため息を吐いた。

「まったくもってお主のそういうところじゃよ。世に受け入れられんのは。それでもわしはお主の才を買っておるから、こうしておすそ分けに来ているわけだがの」

 思わず、鼻から笑いが漏れた。

「大きなお世話だよ。古来、聖人君子ってのは清貧に甘んじるものなんだ」

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