ゆらの戸を

柴原逸

序章 よしただ


「これでよし、と思いなさい」

 母親は末期の床でそう言った。

 俺が形ばかりの元服を急いだ、わずか三日後のことであった。

「何事もなるべくしてそうなるのですから、恨んだりしてはなりません。妬んだりしてはなりません。万事これで良かったのだと思うようにしなさい。父上もそれを伝えたくて、あなたに好忠(よしただ)という名を付けるよう言い残されたのですよ」

 父親は俺が物心つく以前に、夜道を盗賊に襲われ殺された。

 母親もまだ若かったのだから、俺さえどこかの寺に片づけてしまえば再婚も叶っただろうが、頑なに俺を手放そうとせず、貧しい後家暮らしを強いられることになった。その上、流行り病にかかって、前の言葉を言い残すとぽっくりとあの世に逝ってしまった。

 天涯孤独の身となった俺は、盗賊が嫌いだったので、盗みだけはせずにどうにかこうにか生きてきた。その経験から学んだことは、この世の中はくそだ、ということだった。

 貴族なんて連中は、名前ばかりは仰々しいが、頭の中では汚職と賄賂のことしか考えていない。学問や才能があったところで評価などされず、結局は権門に生まれついたかどうかだけで一生が決まる。

 縁故や贔屓での出世など当たり前で、昨日まで他人の沓を舐めていた人間が、突然要職に就いてふんぞり返るなんてのも日常茶飯事だ。

 人間も、人生も、ろくなもんじゃない。

 自分の名前を思い出す度、母の遺言が蘇ってきて、どうしようもない憤りに駆られる。

 どう考えたって、これで良いわけがない。

 これで良いはずがあるものか、と。

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